北清事変が終わってから、列強は清国に駐屯軍をおいた。 名目は居留民の生命財産の保護ということであった。むろん、権益の保護もする。これを清国の側から見れば、すでに独立国としての体面も威厳も地に堕
ちたといえるであろう。義和団騒ぎの結末である。この騒ぎが中国史にとってどういう位置を占めるかはむずかしい問題だが、何にしてもこの時期は功罪のうち罪の方がはるかに大きい。 連合軍解散後、各国の駐屯軍司令部は北京と天津に置かれた。日本も同様である。 各国ともなかば恒久的な駐屯であった。天津における日本の司令部は、 「清国駐屯軍守備隊司令部」 と称された。 指令案に任命されたのは、すでに大佐に進級している秋山好古である。 天津というのは首都北京の外港にあたる経済都市で、明の永楽年間にはじめてここに城郭が築かれ、街まち
の体てい をなした。 清になってからいよいよ街は栄え、やがてここが直隷ちょくれい
省の首府になり、直隷総督が、保定と天津との二ヶ所にかわるがわる駐とど
まるという政治都市になったが、ほどなく開市場になり、華北における外国貿易の基地になった。居留民も多い。当然、義和団騒ぎのころはこの街も義和団によって占拠され、連合軍の攻撃目標の一つになり、その砲撃によって城壁がこわされた。 戦後、さらに残存していた城壁も連合軍の手でこわされ、無防備都市になった。 日本も列強にならってここに租界そかい
(外国人居留地) というものを置いた。 「北清事変で三井大儲け」 という記事が、この年の一月六日付の報知新聞に出ている。三井物産は去年義和団騒ぎのために損害をうけたが、その後はこの事変のためにかえって大儲けし、馬蹄銀ばていぎん
の売買だけで百万円の利益をあげた、と。その三井の中国における根拠地も天津の日本租界にある。 「アジアにおける二十世紀は北清事変の砲煙が静まるとともに開けた」 と、天津在留の外国人たちはみな口ぐせのように言った。 この明治三十四年は、二十世紀の第一年にあたる。中国にとってはさんざんな年であったが、中国利権で飽食しようとする列強にとってはこれほどありがたい夜明けはなかったであろう。 「帝国国民の世界的雄飛をなすべき新しき世紀は来れり」 と、この年の元旦、時事新報もその社説に書いている。 「新舞台は東洋にひらけんとす。わが国民は大いに奮発してこの新舞台に優者の地位を占むるの覚悟なかるべからざるものなり」 |