いわゆる北清事変で連合軍を組織したのは英、独、米、仏、伊、墺
の六カ国と、日本とロシアである。日露両軍がもっとも人数が多く、主力をなした。 各地で清国軍や義和団を破りつつ八月十日、ついに北京の囲みを破って入城し、各国公館員や居留民を救うことが出来た。 キリスト教団の側から言えば、いわば正義の軍隊である。しかし入城後に彼らがやった無差別殺戮さつりく
と掠奪のすさまじさは、近代史上、類を絶している。 彼らは民家という民家に押し込んで掠奪の限りを尽くしたばかりでなく、大挙して宮殿に踏み込み、金目のものはことごとく奪った。 ロシア軍は、司令官のリネウィッチ将軍みずから掠奪に加わった。 「これは風説ではなかった。私はその後、北京駐在の財務官コチロフから非公式に情報を受取って、その風説が事実であることを知った」 と、ウィッテは言っている。 ただし、日本軍のみは一兵よいえども掠奪をしなかった。 北京占領後、各国が市内をいくつかに分割して警備を担当したが、日本軍の担当地区ではいっさい掠奪暴行事件は起こらず、避難していた中国人もこれを聞き伝えてぞくぞく戻って来、復興がもっとも早かった。日本国は条約改正という難問題を抱えており、「文明国」
であることを世界に誇示せねばならず、そのため国際法や国債道義の忠実なまもり手であろうとした。 「すでに白人ですらやっているではありませんか。われわれだけが行儀よくする必要はない」 という者もいたが、占領地の軍政長官である中佐柴五郎がそれを押さえつけた。柴五郎は秋山好古と士官学校の同期であり、真之とは米西戦争の観戦武官としてキューバで一緒だった。 ただしこの軍規厳守も、柴五郎がのちに他に転出するとともにくずれた。 「陸相クロパトキンは、この事変にさいして大変軽率な行動をとった」 と、ウィッテは言う。 軽率な行動とは、ウラジオストックの兵を動かしただけでなく、なんと大げさにもヨーロッパ・ロシアからも大兵を派遣したのである。 シベリア鉄道で極東へ送られたロシア軍は、このまま全満州を占領し、居すわってしまった。むろん、違法である。 ──
日本は、どう反撥するか。 というのがウィッテの心配であったが、このころから極東に関する限り、ウィッテの発言力は大いに弱まっている。 |