〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-X』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(二)
 

2015/01/09 (金) 

列 強 (二十五)

義和団騒ぎは、天地を覆うような勢いで広がり、いたるところで官軍を破り、ついに首都北京に入った。およそ二十万人の義和団が首都で掠奪、放火をくりかえし、ついには清国政府も公然これと手をにぎった。
彼らは、外国公館員をも殺した。明治三十三年六月十一日には日本公使館書記生杉山あきら が殺され、同二十日にはドイツ公使ケトラーが殺された。
が、外国側は手のくだしようもない。北京に居すわっているのは義和団であり、それを応援しているのは官兵である。諸外国の公館は、孤立した。
だけではない。ドイツ公使が殺された翌日、清国政府はもはや自暴自棄のような行動に出た。列国に対する宣戦布告の上論じょうゆ を政府軍と義和団に下したのである。
北京在住の外国人はそれぞれの公館をトリデとして籠城し、救援軍を待った。
が、諸外国はなにぶん本国が遠く、急には大軍を送れない。日本は、近い。
「日本が、大兵を出せばいい」
と主張したのは、日本と強調的な英国であった。米国もそれを支持した。
が、ドイツとロシアは難色を示した。彼らにすれば、大兵を出した国が戦後処分において大きな権利をつかむというのである。ロシアとドイツはこの時期、帝国主義的欲望の強さという点ではつねに息せき・・ 切ったような思考法をした。
結局は日本が、連合軍の総兵力の二万余のうち大部分を送ることになり、この連合軍に仲間入りしたことが、中国における列強の位置ザ・グレート・パワーズを新たに占めることになった。日本は、広島の第五師団が動いた。この師団の兵站監へいたんかん として、この時期すでに騎兵大佐になっていた秋山好古よしふる も出征した。この外征は、日本では北清事変という。
ロシアのことである。
当初、非侵略論を主張して孤立していたウィッテは、
「みたことか」
ろいう気持が抑え切れず、たれかれなしにそれを言い、憤慨した。ロシアが関東州 (遼東半島) さえ強奪していなければこういう義和団事件などは起こらなかったはずだというのである。ウィッテに言わせればたとえ義和団を武力で鎮圧してもこれが導火線になってそれからそれへと国際紛争を誘爆させてゆくであろうといおうのである。
それを軍閥の総帥である陸相のクロパトキンにも言うと、
「冗談じゃありませんよ、伯爵」
と、クロパトキンは意気軒昂としていた。
「北京へ兵力を出す。が義和団は北京だけにいるのじゃありませんからね、満州にもいる。われわれは満州にも大軍を出す。そのまま座り込んでしまう。満州は自然ロシアのものになる」
軍部ではすでにそのような手配りを完了してしまったらしい。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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