ウィッテの手
とは、賄賂わいろ である。 シナ人官吏に対するロシア人の見方は、 「彼らシナ官吏は、少しでも仕事をすれば当然報酬があるものと思っている。この呼吸を飲み込んでいなければ、シナで外交の仕事をすることは出来ない」 というものであり、ウィッテはそれをやろうとした。賄賂の相手は、李鴻章りこうしょう
である。 この清皇帝の国政の枢機すうき
を握る権勢家については、ウィッテは以前、李鴻章がロシアの戴冠式たいかんしき
に来た時、ペテルブルグで会って知っている。 「彼は私の見た偉人中の偉人である。彼はヨーロッパ風の学者ではなかったが、シナにおいては大学者であった。そのうえなお尊敬すべきことは、明敏な頭脳と常識の発達していることである」 ウィッテは、そうほめている。ウィッテは露清条約を締結するためこの期間、李鴻章と折衝を大いに深めたのだが、李鴻章の政治哲学を知るうえで印象的な言葉をいくつか聞くことが出来た。 戴冠式はモスクワで行われた。その行事の一つとしてモスクワ近郊の広場ハドゥインカで群集の自由参加を建前とする遊園会が企画された。ここに新帝が親臨して親しく群集の祝賀を受けるのだが、ところがその朝未明、はやばやと来集した群集のために混雑し、二千余人という死傷者を出すにいたった。 しの惨事のあと、李鴻章の馬車が来た。李鴻章は馬車をおりてウィッテに近づき、 「惨事のあったjことを陛下はご存じですか」 と、聞いた。ウィッテは当然ご存じである、なぜならそういうことは所轄大臣からすぐさま報告するから、と答えると、李鴻章は物憂げにくびを振り、 「どうも貴国の政治家たちは経験が足りないようである」 と、訓戒するような調子で言った。 「私が昔直隷ちょくれい
省の総督であったころ、管内で流行病が猖獗しょうけつ
して毎日 ── 毎日である ── 何千人という死者が出た。しかし私は皇帝に対してそれを報告せず、管内は平穏無事で民衆は生を楽しんでおります、という報告ばかりしていた。どうせ救いようのないことを、いくら報告したところで君主の心を悩ますだけのことではないか」 それが、東洋式というものであろう。ロシア人は西欧人的規準からみればその思考法に東洋色がつく、そのぶんだけロシア人自身も遅れて・・・
いると考えている。ウィッテはこの李鴻章の言葉を聞いた時、ひそかに、 (われわれロシア人の方が、やはり進歩しているな) と、思った。 ウィッテは、北京駐在財務官ポコチロフに電報を打ち、李鴻章とおよびそれに次ぐ権勢家である張蔭桓いんかん
に賄賂を贈ることを命じた。李には五十万ルーブル、張には二十五万ルーブルである。彼らはそれを受取り、西太后に対しロシアの要求を聞き入れるよう巧みに説き、承知させた。 遼東半島は、ロシアのものになり、明治三十一年三月十五日、調印された。 |