〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-X』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(二)
 

2015/01/08 (木) 

列 強 (十七)

ウィッテは大蔵大臣ではあったが、閣僚中の実力者として外交問題にも強い発言権を持っていた。
このウィッテの終始変わらなかった考え方は、極東においてはなるべく日本との衝突を避けるというろころにあった。要するに日露戦争を回避するとおうことであり、こういう考え方は、この時期のロシアの大官においてはきわめて珍しい。
むろん、ウィッテは平和主義者ではない。
修道院的な平和主義者が、この時代の血なまぐさい大国の大官がつとまるはずがない。
ただウィッテは、帝政ロシアの大臣のなかにあっては、めずらしく西欧ブルジョワジーの考え方を持っていることはすでに述べた。簡単に言えばウィッテは銀行家の代表であり、その立場から言えば、
「日本との戦争は、ロシアに何の利益ももたらさないばかりか、害のみである」
という考え方をとっている。
まず、財政家として戦費の浪費がおそろしい。ロシア財政は疲弊するであろう。それに日本と戦って得るところのものは、日本列島ぐらいのものである。得たるところで海を隔てて列島を支配するというのは困難で、それに列島には単一民族が人口多く居住し、それを治めるのにおそらく手を焼く。さらには、日本には米以外の産物がなく、資源もない。こういう列島を取ったところで引き合うものではない (むろん、ロシアの他の大官も、日本まで奪ろうと思っている者は一人もいなかったが)
さらにはウィッテは、戦争の副産物としての社会問題にするどい洞察眼を持っている。
すでにロシアにおける反帝政主義運動は、ロシア的矛盾のなかでがん のようにはびこっている。戦争ほど人心を投機的にさせ、社会の既存秩序をゆさぶるものはないが、この時期、ロシアがもし対日戦争を起こせば、帝政秩序はただではすむまい。もとtも、
「むしろ帝政にとって有利である」
という者も多い。大いなる外征軍をおこして連戦連勝すれば、人民の関心は一挙に戦争の方に集中し、人民の国家への随順心も大いに高まるであろう。というのがその論者の論点だが、ウィッテはそうは思わない。ウィッテはすでにロシアの社会主義勢力がどこまで来ているかを十分察していた。もし兵士に厭戦気分がおこれば戦いに負けるばかりか、負ければ後方のロシア社会は変質する。あるいは帝政は倒れるかもしれない、という危機感を持っている。
ウィッテは、およそ楽天家ではない。
「日本を刺戟してはいけない」
と、ただ一人言いつづけて来た。
もっとも彼は、ロシアの極東伸張政策そのものに異存があるわけではニ。その世襲的国策は、ロシア国の大臣としてむろん支持している。ただ日本を刺戟せずしてそれをやる方法はある。という側であった。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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