〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-X』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(二)
 

2015/01/08 (木) 

列 強 (十八)

「この当時、日清戦争前後、極東に関する諸問題は、もっぱら私の管掌かんしょう に属していた」
と、大蔵大臣ウィッテは言う。帝政ロシアにおける大蔵大臣は、大きな権限を持っていた。
帝政ロシアの体質の一部が、たまたまこういうところにも現れている。外務大臣の仕事はおもにヨーロッパとの 「交際」 であり、大蔵大臣は極東ファー・イースト を管掌する。極東とは、中国、朝鮮、タイ、そして日本など。そこに起こる対外問題は大蔵大臣の所管であるというのは、ロシアにとって極東とは、
「財産もしくは財産になる得る土地」
ということなのである。
もっとも、このころのロシアの各省は近代的な意味での組織とは言い難い。
シベリア鉄道にしてもそうであった。交通大臣というものがいるのに、この鉄道の建設と運営は、初期においては大蔵大臣ウィッテの仕事であった。先帝がウィッテの才腕を見込み、そのようにせよ、と命じた。皇帝の命令は、あらゆる法律や法規に先行する。このことについて、ウィッテが言う。
「シベリア鉄道を建設してヨーロッパ・ロシアとウラジオストックを結ぶことは、先帝アレクサンドル三世がとくに私に委任された事業である」
ついでながら、今の皇帝になってから。ウィッテはシベリア鉄道についての鉄道技術的な仕事のほとんどを交通省にゆずった。交通大臣も、ウィッテが皇帝に推薦した。かつて鉄道局長をやっていたヒルコフという侯爵である。
この侯爵の略歴は、この当時のロシアの一面をうかがうことが出来る。彼はもともと近衛連隊の一士官であり、トゥヴェルスカヤ県に世襲の領地を持っていたが、一時、農奴解放が行われたときその田地をみな百姓たちにくれてやり、彼はロシアを捨て、アメリカへ渡った。この当時のロシアの貴族の中での良心的な、そして能動的な、そのくせ革命などとおうことを企てぬ青年の一典型であろう。
アメリカはすでに技術社会である。ここへ渡ったヒルコフ侯爵は、一労働者になった。彼は鉄道につとめた。最初は工夫になった。ついで機関士の助手になった。さらに機関士になった。
ところでこのころ、ロシアにおいて鉄道の大々的な敷設がはじまっていた。彼はたまたまロシアへ舞い戻ったところを、政府はこの工夫および機関仕あがりの貴族の技術を見込み、鉄道局長にしたのである。
当時のロシアの鉄道技術の段階が、この侯爵の略歴でわずかに想像できる。
ところでウィッテは、鉄道の敷設や運営という技術面こそ交通省にゆずったが、その財務面、沿線の行政面についてはなおも大蔵省の領分においていた。この鉄道は極東へ行く。自然、ウィッテは極東の地理、歴史、政治情勢については、いかなる大臣よりも詳しかった。むろん、外務大臣や陸軍大臣よりも、である。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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