〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-X』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(二)
 

2015/01/05 (月) 

列 強 (十四)

対馬は、宗家そうけ 十万石の藩で、厳原いずはら (府中) を城下としている。むろん古代から日本のうちで、 「魏志ぎし 」 にも (日本) の領域の一つとして出ている。
ロシア軍艦はこの対馬のその碇泊地付近を占領したまま去らず、対馬藩でこれに対し退去方を交渉したが、ロシア側は相手にしない。
ロシアが占領している近辺の村々は、ロシア水兵の掠奪りゃくだつ 暴行にたえかね、村を捨てて山中に入り、野宿した。対馬藩は江戸へこの暴状を急報した。
飛脚の往復に日数がかかるため、幕府から交渉役の小栗忠順おぐりただまさ (のち上野介こうずけのすけ ) がやって来たのは五月に入ってからである。同月十日、ロシア側の艦長ビリレフと面談した。
ロシア側は、
「幕府代表よりむしろ対馬の島主 (藩主) に面談したい」
という意向で押してきた。幕府側が言うのに、交渉相手は幕府である、藩主は何も知らない、ということであくまでもつっぱねたが、ロシア側はきかず、ついに小栗はそれについての幕府当局の訓令を受けるべくひとまず江戸へ帰った。対馬滞在は二週間ほどであった。
その間、ロシア代表は対馬藩の交渉役 (家老仁位孫一郎) と対面し、ロシアの意向を伝えている。
この時のロシア側の発言内容は対馬藩の公式記録で残っているが、ロシアの帝国主義というものがどういうものであるのか、この記録はその内蔵のにおいまで れにおわせているようである。
ロシア側は言う。
「昼ケ浦から芋崎までの土地を租借そしゃく したい。このことはさきに英国からも将軍家に願い出ている (筆者註・うそである) 江戸役人はロシア側に好意的で、彼らの言うのに対馬藩さえかまわなければどうこうといっている (筆者註・これもうそ) だから対馬藩から租借かまいなしよいう書きつけをわれわれにさし出してもらいたい」
「英国人の本意は、対馬を借り受ける上は対馬の日本人を追い出すつもり (筆者註・根拠のないこと) だが、ロシア人はそういうことをしない。われわれは対馬藩の利益をはかろうとしている。たとえばわれわれは先般朝鮮へ行き、沿岸を測量した。朝鮮ぐらいは、われわれの武力ですぐ れるのだが、もし君たちがこの島の一部をロシア人に貸してくれるなら、ロシア皇帝は朝鮮を奪って対馬藩にさしあげる。対馬藩は大大名になれるではないか」
「そのかわり、こういう条件をのんでもらいたい。右の租借地をロシアに差し出すほか、牛島から大船越までの浦々はロシア皇帝の警備地にする。他国人が来ても、相手になってはいけない。ロシア人がその相手をする」
要するに対馬の主権をロシア皇帝に渡せというのである。そのかわり朝鮮を呉れてやるという。朝鮮こそいい面の皮であろう。
この決着は、駐日英国公使がその艦隊勢力を背景にロシア側に抗議し、軍艦の退去を要求したことによって落着した。対馬はあやうくロシアの領地になることをまぬがれた。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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