ロシア帝国が極東侵略の野望を露骨に現わし始めたのは、わが国の年代からいえば、江戸中期から後期にかけてである。 その地名に、 ──
東を征服せよ。 という意味があるというウラジオストック (浦塩) をロシアがシナ (清国)
からゆずらせたのは、日本が攘夷熱にあおられていた万延元年、一八六〇年である。 この時期になると、ロシア帝国の侵略熱はすざまじくなる。帝国主義の後進国であっただけに、それだけにかえって目覚めたとなると、かさ
にかかったような侵略の仕方をした。日本の幕末ごろからしきりにシナ領に食指をうごかした。 満州を含めたシナ地帯は、シベリアとはちがい、漢民族の独立国である。しかも紀元前から存在した文明圏であり、土足で踏み込むわけにはゆかず、他のヨーロッパ諸国はおなじ侵略をするにしても老巧な手段を用いたが、ロシア人たちはこの点露骨であった。 その露骨さは、他国の例よりも日本に対して行われた例で感じ取るほうが、実感があるかも知れない。例の一八六一
(文久元) 年、ロシア軍艦によって対馬つしま
が占領された事件がある。 当時、 「極東を争う者は、英国とロシアである」 といわれ、このことは日露戦争当時までつづく。ともかく、日本の幕末、英国も、この朝鮮半島と九州の間の海峡に横たわる島に対し、執拗しつよう
な関心を寄せた。領有して軍港と商港を開きたかった。もし英国が対馬を領有すればロシアはどうなるであろう。 南下策が、一頓挫する。沿海州とウラジオストック港を得てこれに一大海軍基地をロシアは作ろうとしているが、対馬で英国に塞ふさ
がれることによって、せっかく制圧下におこうとしている日本海は、ロシアにとってタム湖になってしまい、ウラジオストックの艦隊が南下してシナへ行きにくくなる。 「英国は、対馬島のまわりを測量している。彼に侵略奪取の野心があるから、貴政府はロシアに加担せよ。ロシアはこの島に英国から守るための砲台を築いてやる。大砲も提供してやる」 と、ロシア政府が、外交官ゴスケウィッチをして江戸幕府に言わせたのは、文久元年二月である。幕府は、ことわった。 が、同時にロシアは実力行動に出ていた。ブリレフという男を艦長とする軍艦が二月三日、対馬へ現れ、尾崎浦に投錨し四月十二日、大船越おおふなこし
しの番所付近に陸戦隊を上陸させ、番所の小者安五郎という日本人を射殺し、さらに番所にいた郷士二人を捕虜にし、番所に置いてあった武器や物品いっさいを掠奪し、村へ押し入って牛七頭ほか金品を奪い、軍艦に引き揚げた。こういう強盗式の侵略方法が、ロシアのやり方である。 その後も、軍艦は去らない。
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