〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-X』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(二)
 

2015/01/05 (月) 

列 強 (十一)

驚くほどの多量の血が、皇太子の頭部から流れた。現場のそばに、永井という呉服屋がある。そこで応急の止血をし、そのあと再び人力車に運ばれた。日本側は滋賀県庁において日本人医師による治療を受けられんことを懇願したが、皇太子は手をふり、側近に告げた。
「日本人の医者の治療は受けない」
そのあと京都へ急行し、宿所の常磐ときわ ホテルに帰り、そこでロシア医官の治療を受けた。
この報は、日本中を震撼しんかん させた。たれもが日本の滅亡を思った。必ず戦争になるであろう。日本はひとたまりもない。明治二十四年の日本の国力は、人口が五千万人もあるという点をのぞいては、ヨーロッパにおけるどれほど小さな国の国力よりも小さい。
政府首脳が見舞と陳謝のために京都へ急行したが、明治帝みずからが西下し、常磐ホテルをたずね、詫びかつ見舞った。
国中の騒ぎ方は、尋常でない。あらゆる団体、たとえば県会、市会、学校、会社などからの見舞の電報、書信が、常磐ホテルもしくは東京のロシア公使館に届いた。その数は、数日の間に一万通にものぼった。
人も、ロシア公使館に行った。学士会も、一ツ橋の講義室に緊急会議を召集し、日本の学界からも陳謝と見舞をのべるということで、二人に会員が派遣された。
喉を突いて自害した者まである。二十七歳の女性である。畠山勇子ゆうこ といい、べつに津田三蔵とつながりのある人物ではない。千葉県鴨川かもがわ の人で、事件を聞くと京都へ急行し、京都府庁の前に座り、短刀を抜き、喉を掻き切って死んだ。遺書は日本政府およびロシア政府宛てのものが数通あり、ロシア政府宛ての遺書には言葉をきわめて陳謝している。ロシア人たちも驚いたであろう。同時に、凶刃を受けた当の被害者である皇太子の心情からすれば、津田の事件といい、畠山勇子の異常行動といい、日本人というものが不気味になったに違いない。
に日本人が集団で昂奮するとき、後世から見ると、ちょっと理解のとどきかねる現象がおきる。陳謝が、ちょうど流行になった。仏教のあらゆる本山において 「御平癒ごへいゆ 大祈祷だいきとう 」 が行われたのはまだいいとして、東北地方のある村では、村会で、
「今後、出生児に三蔵という名前をつけてはいけない」
という決議をした。
このあと、皇太子は母后からの指示で日本のホテルに停泊することをやめ、瀬戸内海に碇泊中の自分の軍艦に移ることになった。それを聞いて明治帝はふたたび西下し、神戸港の桟橋まで皇太子に付き添い、ランチが桟橋を離れて軍艦に着くまで見送られた。ニコライ二世とのつながりには、このような事件がある。
「猿」
と彼が日本人のことをそう呼んだ気持には、感情家だけにこの事件も重要な要素をなしていたであろう。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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