〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-X』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(二)
 

2015/01/05 (月) 

列 強 (十)

ニコライ二世は、平素、日本及び日本人という言葉が出るとき、
マカーキ
というあだなで呼んだ。ウィッテによれば公文書にまでこの皇帝は 「猿」 と書いた。
彼は即位する以前から日本人に対し、生理的とまでいえる憎悪を持っていたことを、ウィッテも触れている。この憎悪は、皇帝にとって終生のものであった。
彼は、 の国に来たことがある。
まだ二十四歳だった皇太子のころである。ウラジオストックにおいてシベリア鉄道の起工式が予定されている。皇太子はそれに赴くためロシア艦隊を率いて極東に来航し、そのついでに日本を訪問した。甥にあたるギリシャ国のジョージ王子二十三歳を同行していた。
明治二十四年のことである。その五月十一日、皇太子は琵琶湖を見物した。
その帰路、大津を通過したとき、沿道を警備中の巡査津田三蔵が突如、その持ち場を離れ、皇太子の人力車に駈け寄り、抜刀して二度にわたって斬りつけた。
巡査津田三蔵は、三重県士族である。精神医学でいう狂人ではない。
思想的狂人であろう。憂国的感情という、ときに最も危険な心情を生みやすい精神が彼においてはげしい。それがはげしすぎるわりには、その心情を秩序づけるための知識と良識がきわめて乏しく、結局は論理を飛躍させ、行動で自分の情念を表現しようとする。津田は素朴な攘夷主義の信者であった。さらに日本が欧州の大国ロシアから侵略を受けようとしているという、そういう危機意識で心をこがしていた。
過度な危機意識というのは、妄想を生みやすい。津田は妄想した。── このたびロシア帝国の皇太子が艦隊を率いて日本見物に来たのは、侵略の前提行動であり、日本の実情や地理を偵察しに来たのである、と。これは必ずしも津田だけの妄想ではない。当時、この説をなす者が多かった。
であるから津田にすればこれを斬るにしかず、ということになる。斬って、国難を未然に防ぎ、ロシアの侵略者どもを驚倒させ、日本男子がどれほど手ごわいものであるかを見せてやろうとした。
津田は、下士官あがりで、剣術の心得もあった。
皇太子の右のこめかみに一刀あびせ、さらに逃れようとする所を、後頭部へ一刀あびせた。傷の深さは骨膜に達するほどであったが、ただし頭蓋骨にまでは達していない。いずれにせよ皇太子にとって生涯の傷あとになった。
三蔵は、ギリシャの王子の竹鞭たけむち ではげしくたたかれ、行動をはばまれた。つづいて二人の日本人車夫が津田に組みつき、その剣をうばい、これを取り押さえた。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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