〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-X』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(二)
 

2015/01/05 (月) 

列 強 (八)

日露戦争当時のロシア皇帝は、ニコライ二世である。
彼の父親はアレクサンドル三世である。彼はこの先帝より教養はあったが、帝王としてははるかに凡庸であった。
先帝のアレクサンドル三世について、多少語っておかねばならない。この先帝は、次子であったために帝王学の教育を受けず、一軍人として教育された。事実彼は軍人に適しており、それも将官級の軍人でなく、佐官級の軍人に適していた。彼自身、自分を誠実な連隊長であるとし、それをもって自ら任じていたところ、長兄の死とともに皇位継承者になり、やがて父帝が暗殺されたために、ロシア皇帝となった。
「アレクサンドル三世は、個人としては教養は無かったが、帝王としては立派であった」
と、口うるさいウィッテですら、そのように評している。ちなみにウィッテはこの時代のロシアにあっては傑出した財政家で、アレクサンドル三世とニコライ二世の両帝に仕え、大蔵大臣をつとめ、のち総理大臣になった。どちらかといえば非ロシア的な人物で、西欧的教養と思想を持ち、ロシアそのものの批判者としてもその言葉は常に警抜であった。
アレクサンドル三世の治世には、ロシア的資本主義がほぼ完成し、西欧なみにブルジョワジーという富裕階級も出来、同時に都市労働者が社会の大きな存在として登場し、成熟し、ロシア的専制体制に大きなくるいが生じ始めていた。
そういう時勢にあって、アレクサンドル三世は信念的な保守家であり、あくまでもロシア的な専制体制を堅持しようとし、その宣言もし、そういう政策を打ち出した。彼はロシアの貴族階級が、ちょうど江戸末期の旗本階級の零落れいらく と同じように没落しかけているのを防ぎ、貴族の封建的特権を擁護しようとしたり、大学の学生問題に手をやき、教育制度を変えたり、大学の自治を奪ったりした。
ウィッテなどはそういう政策の一つ一つには異論があったが、アレクサンドル三世が擁護しようとしている専制体制そのものには賛成であった。
「ロシアは全国民の三五パーセントも異民族をかかえている。ロシアの今日までの最善の政体は絶対的君主制だと確信している」
と言う。西欧的ブルジョワ思想の持ち主だったウィッテにしてしかもこのような意見を持つのは、いかにロシア国家とその社会が他のヨーロッパ諸国と違うかということを見るべきであろう。
アレクサンドル三世のロシア帝国はたしかに強大であった。
「なにがそのロシア帝国をつくったか。それはむろん無制限の独裁政治であった。無制限の独裁であったればこそ大ロシア帝国は存在したのだ」
ついでながら、ロシア帝政はニコライ二世を最後の帝としてたおれたが、それに取って代わった革命政権もまた独裁政治である時期が長かったことを思えば、このウィッテの言葉はきわめて深い暗示をもっている。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
Next