〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-X』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(二)
 

2015/01/05 (月) 

列 強 (七)

しかし、この 「匈奴の王」 は、ヨーロッパ貴族風の典雅こそないが、行動力にかけては彼ら文明の貴族たちがピョートルの足もとにも寄れぬところがあった。
オランダでは、ザータム造船所に一職工として入り込んだのである。
「ロシアの君主ツァーリ であることを人に洩らしてくれるな」
と、最初から造船所の幹部に頼んでおいたから、職工たちは知らなかった。
「大工のピーテル」
という変名で働き、職長にどなられながらあらゆる労働に従事した。材木もかついだし、釘運びもした。彼は全長百フィートの船の建造工事に最初から参加した。竣工までやった。どういう技術でも職工技術からやるというのがピョートルの考え方であり、そういうことをやってのけた帝王は古今東西にたれもいない。帝王としても人間としてもピョートルはきせきのようなところが。あった。
ピョートルのどの肖像を見ても、ロシア風のもじゃひげをはやしていない。彼はそれが嫌いであった。彼は帰国すると、自分の貴族たちがそれをはやしているのを見てやりきれなくなり、
「今後、ひげをはやしている者には課税する」
と宣言し、事実その通りにした。開化の日本が、チョンマゲをゆるさず、断髪令を出したのと同じであった。
「みな長靴下をはけ」
とも、ピョートルは命じた。それまでロシアは、東洋の影響を受けて貴族はだぶだぶの長衣をつけるのが普通であったが、それを禁じ、服装を西欧風にさせた。
当然保守家の間で 「攘夷論」 が起こり、ピョートルの評判は悪かったが、彼は次ぎ次に改革と西欧化を断行した。学校をつくり、産業を興すなど、彼はここで列記することが出来ないほどに多くの事業をやったが、彼のそういう政治的奇蹟 ── 革命 ── が彼のただ一人の手でなし得たのは、ひとつは、ツァーリというものがそれほど大きな専制力があるということであった。
そこは、君主専制の国家である。
この君主専制ということを考えずに革命以前のロシアは理解出来ない。十五世紀以後、ヨーロッパでも日本でも、ロシアのような専制君主を持たなかった。君主の機能はきわめて狭く制限されたもので、それがいわば進歩した社会というものかも知れない。日本などは君主としての絶対権を自由に行使できた人物はほとんどいない。源義経、豊臣秀吉、徳川家康とならべても、彼らはみなロシアの皇帝よりも不自由であった。ましてそういう創業者のあとの君主たちは、その君主権は補佐者によって大幅に制限されていた。
ピョートルがやった上からの文化革命というのは、ロシア的事情による君主ツァーリ でこそ出来るものであった。くだって日露戦争を起こしたのも多分に皇帝ツァーリ の意思によるものであったことを、われわれは思い合わせなければならない。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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