ピョートル大帝は、わが国の歴史の中では、幕末の開明君主といわれた薩摩藩の島津斉彬
や、肥前佐賀藩の鍋島閑叟かんそう
にきわめて類似している。ただし、ピョートルには斉彬や閑叟が持っていた人文の教養はない。 対比ということで思い浮かべるのは、斉彬や閑叟という開明君主の出現がピョートルよりも百五十年後ということである。 この百五十年という大きな落差で日本がやっと開花したというのは、維新後、日本の欧米に対する運命のようになって行くのだが、それはさておく。 斉彬や閑叟は、自分の藩を欧米風の産業国のようなものにしようとして、さかんに新技術を取り入れたが、同時に彼ら自身は漢学にも明るく、閑叟のごときは詩文の徒としても当時の二流ではない。 が、ピョートル大帝のおもしろさは、帝王として文書を書くにあたっても、かならず一つや二つはツヅリを間違えたというほどに、そういう面での教養は無い。 しかしピョートルが斉彬や閑叟よりも偉大
── というより風変り ── であったのは、彼自身が外国で職工になったことである。 ── ロシアの造船技術はだめだ。 と、ピョートルはかねて思っていたが、同時にその不満を解消すべき機会を狙っていた。彼の当時、造船技術での高峰といえばイギリスとオランダである。 その機会を作るために、彼は別な企画を考え、実行した。 彼の二十五歳のとき、宮廷政事家たちを中心とした二百五十人の団体を組み、彼がみずから率い、西洋文明の見学旅行をやったことである。ロシア貴族の頭を切り替えるためであった。これも、日本の維新当時によく似たことがある。 岩倉具視ともみ
を首領にした大見学団がそれで、閣僚のほぼ半数を含めた者がこれに加わり、その人数は二百人という大世帯になった。大久保利通、木戸孝允、伊藤博文などがこれに加わり、その収穫はその後の開化に計り知れぬ影響をもたらした。 ロシアの場合も、同様である。その
「文明見学」 は、様々の珍談をうんだ。生活習慣が違うため西ヨーロッパの側から見れば、ロシア人は野蛮であるとしか思えないことが多かった。そのように断定する人もあった。少なくともピョートル以下が泊ったロンドンの旅館の主人はそう思った。ロシア人は室内でも痰そはき、つばをはき、酒を飲むと集団発狂したように乱暴になり、カーテンをひきちぎったり、家具をこわしたりした。ピョートル自身がそのこわし屋の大将であった。彼は酒を飲むとロシア風の乱痴気騒ぎをするのが好きであった。とうていヨーロッパの王や貴族といった風の典雅さはなく、そういう点は匈奴であった。 |