〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-X』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(二)
 

2015/01/03 (土) 

列 強 (三)

ロシア帝国というものの本質について、おもしろい学説がある。
原型は 「モンゴル帝国であり、あとでロシア人がたてた帝国はその後継者である」 と言う。この考え方をとる派を、ユーラシア学派という。このユーラシア学派の説を極言すれば、社会史的に見たロシア人は目の青いモンゴリアンであるという事になるであろう。
ジンギス汗のモンゴル人は西はロシア平原をも含め中央アジアに壮大な帝国をつくったが、それ以前、五世紀にもロシア平原に帝国をつくった民族は、モンゴル種といわれる匈奴きょうど であった。
匈奴とは、東洋史上の呼び名である。フン族ともいう。モンゴル語でhununと言うのは人という意味である。純粋の遊牧生活を持ち、騎馬に達者で、射術に長じ、その容貌は日本人に似、その言語も日本語と文法が類似している。
匈奴も、のちのジンギス汗のモンゴル人もゴビ砂漠の北を根拠地にしているが、騎馬民族だけにその行動範囲はきわめて広く、紀元前から中国本土を侵しつづけ、その力はしばしば中国の帝国を衰亡させた。
それがロシア平原の征服者として、五世紀と十三世紀に彼らの国家をたてたことはすでに述べた。のちロシア人が民族的結集をして西洋史上でいう 「タタール (モンゴル人) のくびき」 を断ち切って民族国家をつくるに至ったが、しかしその影響はまるで受けなかったとおうことは、反ユーラシア学派の学者といえども言えないであろう。
ロシア人は、ヨーロッパ人が持ったような市民社会をついに持たなかったとおうのも、ロシア以前の支配者であるモンゴル人の影響から説く方がわかりやすい。さらには、ユーラシア学派のいうように、皇帝の専制主義ということも、アジアの遊牧民族から相続したものであろう。皇帝の専制主義といえば、日露戦争当時のロシアですら驚嘆したくなるほどにそれであった。こういう、同じ白人でありながらおよそヨーロッパ的でないロシア的現実は、アジア人の支配を長く受けていたという事実と濃厚な血脈関係がある。
ともかくロシア人は 「タタールのくびき」 があったために、他のヨーロッパ人に比べてすべての点で遅れてしまっていたことは確かなことである。
さらに、ロシア人は、古いころ、商業民族ではなかった。古代にあっては商業民族はそれ以外の民族に比べてはるかに冒険的で行動力があるが、ロシア人はそうではない。
ロシア人を最初に征服したノルマン人は武装した隊商を組んでほうぼうを押しわたる機能を持っていたが、そのころのロシア人はそれから学ぶところがはなはだ薄かった。
が、そのロシア人も、十六世紀ごろになると商業的情熱を持つようになった。その商業というのは、毛皮である。
シベリアは、毛皮は豊富とされる。そのシベリアに向かってロシア人とロシア国家が伸張しはじめたのは植民地獲得のためでなく、毛皮を得たいためであった。毛皮を得ることが、結局は土地を得ることになった。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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