〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-X』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(二)
 

2015/01/02 (金) 

列 強 (二)

ロシアについて、しばらく触れつづけたい。
十八世紀もしくはそれ以前から、ロシア人は東へ東へと進み、その勢力圏をのばしつづけた。陸続きの土地を、これほど広大な地域にわたって占有した民族は、ジンジスカン のモンゴル人以外史上にないかも知れない。
かといってスラヴ-ロシア人が、本来好戦的であり侵略的な民族であると決めるのは、大きな間違いである。むしろその民族的本性はその逆であるかもしれない。
日本の平安朝のころ、日本人はすでにそれなりの統一社会と文化を持っていたが、スラヴ人はなお未開に近かった。人口の希薄な東ヨーロッパの地で点々と聚楽を持ち、むろん、それらを連合する国家はまだ出来ていない。
彼らが国家というものを経験したのは、他民族に征服されることによってであった。そのころスウェーデンのあたりにいるノルマン人が、ヨーロッパにおけるもっとも活動的な民族の一つであったが、そのノルマン人の首長リューリックという人物が、スラヴ地帯の一部を征服し始めて小規模ながらロシア国家の祖型のようなもをひらき、この家系の王家がしだいに版図をひろげ、キエフに都した。
十三世紀に入って、アジアからやって来たモンゴル人の征服を受けた。日本の鎌倉時代、北条泰時やすとき が執権になった前年、モンゴルの侵入軍がカルカ河畔で南ロシアの諸候連合軍を破り、それから十三年後、モンゴルの将抜都ばつ がロシアに入り、モスクワとキエフを占領し、やがてこの地に封建制をしき、大モンゴル帝国の一環であるキプチャック国を建設した。他民族に支配されているとはいえ、スラヴ人が一つの国家のもとに大きな集団を形成した最初といっていい。
モンゴル人の支配は、二百数十年つづいた。その支配下で彼らは、モンゴル人軍の戦闘の仕方などを自然のうちに学んだように思われる。
やがてモンゴル人の支配力が衰えてくると、スラヴ人は同民族の英雄の結集力を強め、のちイワン三世は、スラヴ人の軍事力を強化し、日本で言えば室町末期の頃、ウグラ河畔の決戦でモンゴル軍を破ってキプチャック国を滅ぼした。これによって同じ民族出身の王による最初の民族国家が成立し、以後、その統一が進み、盛衰を繰り返しつつその後のロシア圏の原型が出来上がって行く。
日露戦争におけるロシアの支配者ロマノフ王家が出来上がったのが、日本では徳川幕府の成立の初期、大阪ノ陣が起ころうとしている慶長十八年、一六一三年である。
初代皇帝ミカエル・フェオドロヴィッチ・ロマノフは内政整理に手腕を発揮し、その子のアレクセイもそれを継承して、その後まで続くロシア的体制の基礎をつくった。
が、なお西ヨーロッパの諸国に比べれば文明の度合いは低く、ロシア人自身もそれを当然とし、民族的奮起をしようというような気概はあまり持たなかった。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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