小村は、藩閥と党閥が国家を滅ぼすとおうことを常に言った。 それだけではない。 「自分は国家だけに属している。いかなる派閥にも属しない」 という立場をつねに明言しつづけた。 たとえば、三十一年一月に成立した伊東博文内閣の外務次官のとき、小村は
「京釜 ・京仁けいじん
鉄道敷設権問題」 というものを解決しようとした。 朝鮮にこの二つの鉄道を敷く、その敷設権は日清戦争のはじめごろに日本政府は朝鮮政府からこの権利を得たのだが、戦後さまざまの事件で実現化しなかった。 要するに日清戦争前後の日本の国力、技術能力、民間の資本力というものの貧弱さから考えると、外国へ出て行ってそこで鉄道を敷くといったような大それたことはとても出来ない。国内でさえ一部幹線のほかはろくに鉄道もなく、それを敷くにも外国人技師を呼ばねばならぬ状態であった。 いっそ、この権利を外国へ売れば。 という案が出て、日清戦争が終わって二年目に米国人のモールスという者に売ってしまった。 小村は、これを不可とした。明治二十九年秋、大隈外相の次官になると、これを買い戻すべく八方に奔走した。ついに大江卓らを説き、民間で
「京仁鉄道引受組合」 というものをつくらせた。ただし、権利買収のための金が百八十万円要る。その元利保証を政府がする、ということで暗礁にのりあげた。議会が、この問題を党利党略につかって承知すまい、ということがたれの目にも明らかであった。 そのうち政変があって第三次伊藤内閣が出現し、小村は引き続き西徳二郎外相のもとで次官を勤めることになったが、組閣成立早々、小村は芝公園にある末松謙澄の私邸に伊東博文を訪ねた。伊藤はこの時期、首相官邸に入るまでの間、この娘婿の邸に仮寓していたのである。 小村は、右の一件を談じ込むと、伊藤はブランディー・グラスをなめながら、 「小村、いうておくが、その一件はいかんよ。それほど大きな国庫負担になる案件を議会にはからずに政府の手でやるというのは憲法違反だ。憲法の起草者たるわが輩が違憲をやるわけにはいかん」 と言うと、 「違憲とおっしゃいますか」 と、以下の言いぐさが、小村の政治思想をよく現わしている。 「そもそも立憲政治とは責任政治のことでありましょう。国利民福になることなら国務大臣が責任を負って断行すればいいのです。いちいち議会にはかることだけが立憲政治じゃありませんよ。げんに憲政の本家である英国はどうです。かつてディズレリーが電報一本で一夜のうちにスエズ運河の株を買占め、四十五万ポンドという大金を支出して運河の管理権を英国の手に収めたではありませんか。時に議会は休会中で、その再開を待って事をやれば機会は永久に去るということでそれをやったのです」 結局、この問題は小村の主張どおりになった。 |