〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-X』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(二)
 

2014/12/25 (木) 

米 西 戦 争 (十六)

一国の外交は天才的な経綸家けいりんか のみがなし得る仕事だが、明治の日本はその種の人才をもつことで多少の幸運を得た。日清戦争では陸奥むつ 宗光むねみつ を得、日露戦争では小村寿太郎を得た。
この時期前後の小村の年譜を見ると、

明治二十九年四十二歳、
朝鮮においてロシア公使と接触し、朝鮮についての協定をおえる。外相大隈重信のもとで外務次官。
明治三十年四十三歳、
陸奥宗光死。ドイツ艦隊膠州こうしゅう 湾を占領。
明治三十一年四十四歳、
九月十三日付で、アメリカ駐箚ちゅうさつ 特命全権公使に任ず。
明治三十三年四十六歳、
ロシア駐箚公使を命ぜらる。
明治三十四年四十七歳、
九月二十一日、外務大臣に任ぜらる。
明治三十五年四十八歳、
一月三十日、日英同盟締結。
以上だが、外務次官から駐米公使、そのまま中露公使、ロシアに赴任する途中ロンドンに寄り英国の外交事情を観察しつつペテルベルグに行き、ついで外務大臣就任、さらに日英同盟の締結、というこのわずか数年間での小村の足どりは、そのまま明治三十年代の日本の運命の骨格をつくりあげたものと言っていい。
痩せている。
度はずれた小男である。
貧相な容貌に大きな口ひげを盛り上げているが、これがかえってねずみを連想させる。
もっとも彼の駐米公使が決まった時、ワシントンの各新聞社から公使館に顔写真をもらいに来た。ある記者は、
「この人はドイツ系か」
と言ったという。そういえば小さな目がくぼんでいて、ドイツの田舎の靴職人といったような感じもする。
真之は、この小村と接触した。
この時期での小村の言行を採録しておくことは、この時代とこの時代人の理解のために多少の参考になるかも知れない。
以下、以下それを採録する。
小村寿太郎の政党論。
「日本のいわゆる政党なるものは私利私欲のために集まった徒党である。主義もなければ理想もない。外国の政党には歴史がある。人に政党の主義があり、家に政党の歴史がある。祖先はその主義のために血を流し、家はその政党のために浮沈した。日本にはそんな人間もそんな家もそんな歴史も無い。日本の政党は、憲法政治の迷想から出来上がった一種のフィクション (虚構) である」
藩閥論。
「藩閥はすでにシャドウ (影) である。実体がない」
ついでなかがら、小村は日向飫肥おび 藩の出身で、薩摩人ではない。
「ところがフィクションである政党とシャドウである藩閥とがつかみあいの喧嘩をつづけているのが日本の政界の現実であり、虚構と影の争いだけに日本の運命をどう転ばせてしまうか分からない。将来、日本はこのうつ ろな二つの争いのためにとんでもない淵に落ち込むだろう」
『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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