秋山真之という人物の戦術能力を、海軍省と軍令部に強く印象づけたのは、このキューバにおける米西海戦のレポートである。 彼の表むきの身分は
「海軍留学生」 であったが、実際は、 「海軍軍司令部第三局諜報課」 というものに属している。いわば、広義のスパイということになるかもしれないが、各国はこのような役割の武官を他国に公然と駐在させていた。現地にいて、おもに公刊の資料を分析したり、戦いの見学や工場見学をして本国にその見聞を送る。 真之が書いたサンチアゴ海戦についてのレポートは、 「極秘諜報第百十八号」 というものものしい表題がつけられていたが要するに現実の海戦を実見することによって得た戦術上の問題点を摘出し、分析し、それに意見を加えたもので、日本海軍がはじまって以来それが終焉するまでこれほど正確な事実分析と創意に満ちた報告書はついに出なかったと言われている。これが、真之個人の運命を変えることにも役立った。 彼がのちにバルチック艦隊に対抗する東郷艦隊の参謀に選ばれ、 「艦隊の作戦はすねて秋山にまかせる」 という信用を受けるにいたったのは、このレポートが日本海軍の上層部を驚嘆さえたことから始まっていると言っていいであろう。 彼はワシントンに帰ってから数日でこれを書き上げ、本国へ送った。 送ってしまうとさすがに疲れ、三日ばかり自室のベッドにひっくり返って、ディケンズの小説を読みふけった。 ドアには、 「静養中」 という札をかけておいたが、もともとこの当時の公使館全体が執務という点ではのんきで、館員が出そろうのは昼前であり、真之が館内で終日寝ころがっていても少しも目立たない。 館員たちは、午後一時に食事をとる。そのあと、五、六人が四階にあがって毎日、それが仕事のように花札をひいている。この当時、日本の公使館などあまり仕事もなかったし、それに日本人自体、事務所で執務をするということについての事務規律や事務の進め方などに習熟していなかった。要するに用がなければ遊んでいるのである。 九月に入って、 「どうやら小村さんが来るらしい」 といううわさが館内でもちきりになった。小村寿太郎である。 かつて北京の代理公使として日清戦争の開戦前夜の外交処理をした人物であり、今は外務次官をつとめている。次官を二年つとめて事実上日本外交を動かしている人物としてむろん真之もその名を知っている。 北京時代、子男でめまぐるしく動きまわるところから、 「ねずみ公使」 というあだなを、列強外交団からつけられていた人物である。
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