戦いは終わった。 真之は、八月三日、ワシントンに戻って来た。 荷物はすでに送ってある。停車場からは、ぶらぶら歩いた。ポケットに手をつっこんでは干し豆を食った。 干し豆が好き、よいうより真之にとっては主食に近い。渡米中でも母親からたえず送ってもらっていた。キューバでは観戦中も船上でこれを食った。 いつもポケットが豆でふくらんでいる。 「歩きながら豆を食うなど、海軍士官としての威厳にかかわるではないか」 と、苦言を呈した先輩がいたが、真之は意にも介しなかった。 公使館は都心から外れたN街の一三一〇番地にあることは先に触れた。地価の安い場所で、その無愛想なレンガ造りの四階建ての建物は、気のきいた新聞社のワシントン支局程度でしかない。 庭の八重桜が、葉桜になっている。 館員も従業員も、みな無事を喜んでくれた。 公使の星亨
に挨拶しようとすると、 「日本に帰られたよ」 と、海軍武官の成田勝朗中佐が言った。まだ後任の公使が決まっていないよいう。 「君もけんか相手ががいなくなってさびしいだろう」 と、成田中佐が言った。 「けんか相手?」 真之はべつに星と喧嘩をした覚えなどはない。 ただ星は、その顔つき姿が豚のばけもののようで、そのせいでもないであろうが、その知識欲は豚の食欲のようにすさまじかった。公使在任中、彼は二階の一室を書斎にしていた。さかんに書物を買ったために本棚が廊下にまではみだした。彼は公務のほとんどは書記まかせで、暇さえあればこの書庫に入り込んで本を読んでいる。 文学書が、多い。シェークスピア戯曲集からディッケンズなど、英米関係の文学書はあまねく集められており、ほかに地理関係の学術書、外交官や政治家の伝記、各国の歴史書、それに兵書などである。 真之の読書欲も星におとらない。ただ星のように書物を買う材料はなかったから、星の書斎に断りなしに出入りしては本を抜き出し、例の速読で読んだ。 星はこれを嫌がった。 あるとき真之をつかまえ、 「君は勝手にわしの書斎に出入りしては書物を読んでいるようだが、どういう料簡だ」 と、なじった。 真之も、星をさほどに好んではいない。けろりとした顔で、 「閣下はあれだけぼう大な書物をお持ちになっていますが、あまり読んでいらっしゃらないようなので、私が閣下の代りに読んでさしあげているのです」 と言った。この挿話は、公使館員の間で多少の話題となった。この挿話が成田中佐の頭にあるらしい。 |