米西戦争の戦訓は、のちに日露間で行われた海上封鎖と決戦のためにどれ程役に立ったか分からない。 多少これを神秘的に言えば、日本人がロシアと戦うためのヒナ型を提供するためにアメリカ人とスペイン人が戦ってくれたようなものであり、その戦訓の取材者として天が秋山真之をキューバにくだしてくれたような具合でもある。 真之はのちにロシアに対する海上決戦の現場設計者兼監督者になったが、このとき、この
「ヒナ型」 の要点を知るために各国の観戦武官があきれるほどの熱心さをもって取材した。 スペイン艦隊のアザール少佐に対する態度もむろんそうである。 アザールが説明するサンチアゴ要塞の防御力と実際の活動と効力を、克明にメモした。 スペイン艦隊の脱出戦についても専門家としての質問をし。専門家としての回答を得た。アザールは包むことなく語った。 そのあと、真之がやった驚嘆すべきことはスペイン艦隊の主な軍艦四隻の残骸を詳しく調査したことであった。どの国のどの観戦武官も、この点は怠けた。 彼は先ず弾痕調査をした。 旗艦インファンタ・マリア・テレサのさんさんたる艦上によじのぼり、一つずつの弾痕についてメモをした。合計二十三発の弾痕がみとめられたが、これは意外であった。 海戦初期、アメリカ艦隊は全力をあげてこの旗艦をまずつぶすべく砲火を集中し、実感としては千発も当ったような印象であったが、右の程度でしかなかった。しかもアメリカの戦艦が放った十二インチ以上の主砲弾は二発しか当っていないのである。海戦の宿命なのか、それともアメリカ海軍の射撃能力はこの程度なのか。 ついでビスカヤが二十六発、アルミランテ・オケンドウが五十発。クリストバル・コロンにいたってはわずか六発で、これは艦の戦闘力を失わしめるほどの被害ではない。おそらく戦意喪失してみずから岸へ乗り上げたのであろう。 真之はこの調査に基づいて 「西
艦隊被弾痕数統計表」 というものをつくり、日本へ送った。こういう 「表」 を思いつくというのは、きわめて思考の整理能力の高い真之の得意とするところだったが、それにしても明治三十一年ごろの日本人が、
「表」 をつくって事態をひと目で分からせるようにしたということ事態、珍しいことと言えるであろう。 表だけでなく、観察と感想、教訓を、彼の得意とする文章によっても表現した。 「この表を見るに、スペイン艦隊の被弾はさほど多くはない。その致命的な打撃は何であったかを見るに、火災である」 真之は、アメリカ軍艦をも調査して被弾状況を調べた。アメリカ側はほとんど無傷に近い。 「この両艦隊の勝敗のはなはだしい違いは、何によるものか」 ということを、真之は報告書に詳述した。 |