〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-X』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(二)
 

2014/12/23 (火) 

米 西 戦 争 (十)

が、戦局は意外なところから転換した。港内にいるスペイン艦隊のセルベラ司令官に対し、本国の国防省から、
「サンチャゴ港を脱出せよ」
と、命じてきたのである。
本国の意向では、スペイン領であるフィリピンがアメリカ軍に攻略されている、この状況下では両面作戦は不利であり、防御を東洋にしぼるため、セルベラ艦隊をその方に持って行こうとしたのである。
── 冗談ではない。
セルベラ少将は思った。
いま、陸上にあっては要塞の攻防戦が続いている。セルベラは千人の海兵を上陸させて陸軍に協力させていたが、本国からの電報ではその千人を艦隊に収容して港を脱出せよというのであったが、この海兵を引き揚げさせてしまえばサンチアゴはただちに陥ちてしまう。サンチアゴが陥落すれば、キューバそのものを放棄するものと同様である。
「今脱出することはまったく無意味である」
という電報を、本国の意思を中継しているハバナ総督に返電すると、折り返し同じ意味の電報が来た。
「脱出せよ、至急」
ということであった。
こうなれば、従うほかない。従うとすれば、あとがどういう方法で脱出するかである。きわめて困難な作業であった。
セルベラは、作戦会議を開いた。検討の結果、アメリカ艦隊の封鎖陣はつねに西の方が弱いということが明らかになった。そこを突破することにしたが、しかしただ突破するだけでは全艦隊を失うことになる。
セルベラは、決断した。自分と旗艦が犠牲になればよい。アメリカの戦艦がやってくればそれに対して刺し違えるべく突進し、衝角 (艦首の水面下に突き出ている角) をもってぶちあてることであった。そうしている間に時間を稼ぎ、他の艦を脱出させてしまう。
脱出は、七月三日朝に決めた。
その日が来た。
セルベラ艦隊は、行動を開始した。セルビラのみごとな指揮のもとに、各艦は次々に狭い港口から出た。
が、この状況はアメリカ側の戦艦アイオワによって以外に早く発見された。アイオワは信号旗と号砲をもって全艦隊にそれを知らせた。
セルベラの旗艦インファンタ・マリア・テレサが湾外に姿を現わしたとき、アメリカ艦隊はすでに戦備を整えていた。いっせいに、この六八九〇トンのスペイン軍艦に向かって砲火を集中した。
戦闘が始まった。
海上は蒸気をいっぱいにあげた各艦がはきだす黒煙と、間断ない射撃で生ずる砲煙のために時には視界がゼロ近くになり、このため駈けまわっていた重巡ブルクリン (米) が味方の戦艦テキサスとあやうく衝突しかけた。スペイン艦隊は、逃げながらめちゃくちゃに撃った。が、射撃はきわめて拙劣だった。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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