〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-X』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(二)
 

2014/12/23 (火) 

米 西 戦 争 (九)

ここに、当然、一つの原則が生まれねばならない。敵艦隊は、軍港内にいる。
軍港は、要塞砲でよろ われている。その鎧を海上から破壊することは出来ない。
「陸軍にはたらかせる以外手がありません」
と、サムソン少将の参謀長チャドウィックは主張しつづけた。サムソンも同意であった。陸軍をもって陸上から要塞を攻め落とすほかない。のち、日露戦争の旅順攻撃において、乃木 希典まれすけ の率いる第三軍のやった役割を、小規模ながらサンチアゴ要塞において、アメリカの第五軍団シャフター少将がやるべきであった。
この作戦は実行された。
六月二十二日の第五軍団のダイクイリ海岸の上陸がそれであった。ダイクリイはサンチャゴ湾から東へ約十六マイル離れている。艦隊に援護されつつシャフター少将以下一万六千の陸兵がここにあがった。
あとは、山地における戦闘行軍がつづいた。日本の観戦武官柴五郎少佐は、この軍団のうちの第一師団に同行した。
この作戦におけるアメリカ陸軍の行動は、作戦といい、戦闘といい、ほとんど素人の域を脱していない。ジャングルを切り開いて道路をつくりながら進むという点で、工兵の活動はきわめて不活発であった。偵察活動も疎漏そろう で、敵情がよくわからない。
酷暑で、士気が日に日に落ちた。その士気を高めるということでは、老人のシャフター少将は必ずしも適材ではなかった。彼自身がこの難行軍に閉口した。
様々な作戦上の錯誤をかさねつつ、上陸後一週間目の二十九日、アメリカ軍はサンチアゴ市街をのぞむ地点に布陣した。これを阻止すべきスペイン陸軍の働きはきわめて不活発で、とこどき勇敢な小部隊の抵抗はみたが、統一した作戦上の意思がないようであり、アメリカ軍は敵のそういう弱さによっていくつかの幸運を得た。後年、日本軍をはばんだ旅順のロシア軍とはこの点比べものにならない。
戦闘が本格的に始まったのは、七月一日早朝のアメリカ軍のサンチアゴ進撃開始からであった。
が、スペイン軍は要塞に っている。要塞とは言いにくいほどに旧式なものだったが、それでも火砲の少ないアメリカ軍にすればとうほうもなく巨大な敵であり、攻撃の試みは次々につい えた。彼らは旅順における日本軍のように、小銃と肉弾だけを武器にあとは命知らずに進み、死体の山を築くような具合に行かなかった。砲弾が落ちるたびに逃げまどい、将校はそういう兵を掌握するだけに大苦労をした。
このような米西戦争におけるアメリカ陸軍の弱さについては柴五郎少佐によって日本の参謀本部にくわしく報告されたが、奇妙なことにおの十九世紀末の資料が日本の軍人のアメリカ陸軍に対する固定観念になり、その後もほとんど修正されることがなくつづき、この後四十年経ってこの陸軍を相手に戦いを始めようとしたとき日本軍部はアメリカの兵士の本質についてその程度の認識しか持っていなかった。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
Next