〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-X』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(二)
 

2014/12/20 (土) 

米 西 戦 争 (三)

運がいい、という点では、この時期における日本の若い海軍士官たちの中で秋山真之がもっとも運がよかったかも知れない。
なぜならば、彼はこの米西戦争においてアメリカ艦隊が、スペイン艦隊をキューバ島のサンチアゴ軍港に閉じ込め (封鎖作戦) しかもその港口において汽船を自沈させ、不完全ながら世界最初の閉塞へいそく 作業をやったのをその目で見たのである。
この実見が、日露戦争で生きた。
日露戦争中、日本の連合艦隊は敵の旅順艦隊を旅順港に閉じ込め、かつその狭い港口を汽船自沈によって閉塞を試みた。真之のこの時の精密なレポートにもとづき、先任参謀有馬良橘りょうきつ がそれを立案し、東郷平八郎がそれを採用し、広瀬武夫がそれを実施した。
米西戦争における教訓が生きたといっていい。
真之が、来るべき海戦を見学せよという日本海軍の命令と米国海軍の許可によって観戦武官というものになったのは、五月の終わりころである。ワシントンを出発し、鉄道で南下してフロリダ半島のタンパ港まで来た。タンパ港は、キューバ作戦のためのアメリカ陸海軍の補給基地であり、港内には三十隻以上の運送船が錨を下ろしており、汽艇が走りまわり、埠頭ふとう には人馬が群れている。
タンパ市のホテルに泊った。
仲間の観戦武官の国籍は英独仏露の四国の人びとで、日本からは二人である。一人は会津若松出身の柴五郎砲兵少佐で、真之の兄の好古とは士官学校の同期であった。
六月八日夜、乗船した。
船はセグランサ号というアメリカ陸軍の軍司令部用も輸送船で、他の観戦武官とともに乗船した。
が、途中、様々な混雑があって輸送船が出航したのは六月十三日の正午であった。
十三隻の輸送船団が組まれた。航海中、陣形が乱れ、一時は迷い子になった船まで出た。
(日本軍ならもっとうまくやる)
と、真之は船上で何度も思った。
なににしてもその後もっとも高い計画能力とずば抜けた能率主義をとるにいたるアメリカ軍も、この時代はどの国の陸海軍よりもそういう点が劣るといっていいようなずさん・・・ な輸送作戦だった。
戦況は、膠着している。
セルベラ少将の率いるスペイン艦隊は、アネリカ艦隊との海上決戦を避け、サンチアゴ港内にすわりつづけている。
アメリカ艦隊はキューバ島の沿岸を走りまわってようやくその事実を確かめたのは五月十九日の夜明けごろであった。発見者の第二艦隊司令官シュライ代将は、
「港内ニ敵アリ」
と、上級司令官のサムソン少将に打電し、港内艦隊の状況を知らせた。もっとも、サンチアゴにいるアマリカの間諜からもほぼ前後してその旨がすでに打電されていた。
スペイン側のセルベラ少将は、自分の艦隊が質と量においてアメリカ側にやや劣っていることを知っている上に、本国から一万四千マイルという長途の航海を続けて来たため船底にかき・・ がついて各艦とも運動能力が落ち、機械その他も修理しなければならないこともむろん知っていた。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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