マハン大佐は現役を退いてからはニューヨークに住んでいる。九月の晴れた日の午後、真之は中央公園のそばにある閑静な住宅街にあるマハン家を訪ねた。 マハンは、この日の午後いっぱいを日本人に提供するためにその婦人とともに待っていた。その男が来た。 「大尉リュート
アキヤマ、私はあなたの国を知っています」 と、マハンは握手のあと、そう言ってこの客の気持をまごませようとした。応接室にすわると、しばらくその話をした。ただし三十年前です、サムライの時代でした、もしくはサムライの時代が終わろうとしている頃でした、と言った。 (おれの生まれた年らしい) と、真之は計算した。 マハンの方でも、感慨深い。長崎でも大坂でも日本人はみなチョンマゲを結ゆ
い、侍は大小をさしていた。町を駕籠が往き来していた。汽車どころか馬車もない国だったが、わずか三十年の間にこういう海軍士官を生み出して今眼前にすわっていることが、どうにも追想の世界と噛か
みあいにくい。しかし現実の日本は、数年前に清国の北洋艦隊に対し、みどとな戦いぶりを演じて破っているのである。 「鴨緑江ヤルーチャン海戦には参加しましたか」 日本でいう黄海海戦のことを、世界では鴨緑江海戦と称されていた。マハンはこの海戦について克明に調べ、その評論を発表し、それについては真之も読んでいる。 「その周辺にはいましたが、あの海戦には参加出来ませんでした。しかし戦後、実戦者に聞いたり、資料や論文を読んだりしてその詳細を知りました。その論文の中には、むろんあなたの論文も入っています。採点の辛さにおどろきました」 「私は歴史の代弁者のつもりでいますから、気むずかしすぎる試験官かも知れません」 と、おだやかなマハンははじめて声をたてて笑った。予備役海軍大佐というより、どこかの大学教授のような印象を真之は受けた。 点が辛いといわれたことにマハンは多少ひっかかったらしく、伊東裕亨すけゆき
の作戦の一つ二つを簡潔な表現でひめた。 真之は、おかしくなった。 「なにしろ、あなたはネルソンに対してすらあのように厳格な採点をなさったのですから」 と、真之は言った。ロード・ネルソンという、英国だけでなく世界の海軍士官が神のように仰いでいる名将に対し、このマハンはネルソンの海将としての性格、その業績の戦術的究明を近ごろやっと出版した。真之はそれも読んでいた。 マハンは、この若い日本人がそういう新刊書にいたるまで読んでくれていることに感心し、自分の海軍思想のしんぞこが語れるような気がした。 |