〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-X』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(二)
 

2014/12/20 (土) 

渡 米 (十六)

マハン大佐は、まだ六十にはならない。が、その海軍歴は古い。
この世界的な海軍戦術の権威がアナポリスの海軍兵学校を卒業したのは十九の齢であり、日本でいえば十四代将軍、家茂いえもち の治世、安政五 (1858) 年のことである。この年の六月、日米間に運命的な絆が結ばれた。大老井伊直弼なおすけ が、攘夷世論の反対を押し切って日米条約に調印したことであった。さらに九月、直弼はいわゆる安政ノ大獄という呼び方で知られる恐怖政治を断行し、多数の反対派に対し、身分をうばったり、牢獄へ送ったり、首を刎ねたりした。
考えてみると、日本はアメリカというこの太平洋を隔てた隣人と、もっとも恩怨おんえん ぶかい関係をつづけるにいたるスタートは、このころであったと言っていい。
卒業後、十年経ち、マハンはアジア艦隊の 「アイロコイ」 の副長になり、慶応四 (明治元) 年いわゆる戊辰ぼしん 戦争の真っ最中に日本へ来た。
東シナ海をへて、長崎へ入り、瀬戸内海をへて神戸、大坂に錨を下ろした。目的は内乱中の日本におけるアメリカ居留民の保護のためであった。横浜にも入港した。箱館港にも入った。
その後海軍大学校の教官になった。海軍戦術を学生に教え、自分も研究するうち、もともと歴史家の天分があったのであろう、この分野に歴史研究の思考法を導入した。後から振り返ればなんでもないようなことながら、この方法が世界の戦術研究に画期的な新しさを加えることになった。
そのうち最も知られている大著は、 「海上権力史論」 である。海上権の移り変わりがどのように西洋の歴史に影響したかということが主題であり、これが出版されるとすぐフランスで翻訳出版された。つづいてドイツ語にも訳された。さらにこういう新傾向のものには機敏な日本人が、近ごろその全訳日本語版をつくった。真之の場合、それを英語版でも読んだが、あらたに出た日本語版でも読み、ほとんど全巻を暗誦するほどに熟読した。
マハンは、その後海軍戦術についての論文を数多く発表したが、真之は日本で手に入る限りのそれらを読んでいた。
「マハンの偉さは、原理の発見者であることです」
と、真之は自分の監督者である成田勝郎中佐にも言った。マハンは彼が集めた過去のおびただしい戦例 (陸戦もふくめて) をくわしく検討し、数多くの原理を探り出すことに成功した。それに成功すると、こんどはそういう原理や原則にもとづいて戦史を再評価し、実戦例を批判したが、それらの論文は世界中の海軍士官によって読まれ、支持された。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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