〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-X』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(二)
 

2014/12/20 (土) 

渡 米 (十五)

アメリカ海軍の現勢はその程度でしかなかったが、しかしヨーロッパ海軍に比べていくつかのほこるべきものがあると真之は思った。
水兵の質はきわめて劣弱である。しかし将校の質はヨーロッパ海軍をしのいでいるのではないかとさえ思えた。そのことは個々の将校に会ったり、アナポリスの海軍兵学校やニューポートの海軍大学校を観察し、印象としてそう理解した。
次いでその特徴は、造艦についての能力である。技術力がすぐれているというわけではなく、ヨーロッパのように伝統に束縛されるところがないため、発想が自由なことであった。おもしろいと思われる着想はすぐ取り入れるという精神がこに国にはあるらしい。
たとえば、軍艦の装甲板である。装甲は厚ければ厚いほど防護力を増すことは子供でも分かっているが、しかし厚ければ厚いほど反比例して艦の戦闘力や航続力が減ってゆくことはたれでも分かっており、これが常識であり、宿命であり、伝統的あきらめであるとされていた。
が、 「新海軍」 を自負するこの国の海軍は自国の製鋼産業にこの矛盾克服の注文を出しついに薄くて強力な装甲板をつくらせることに成功した。ヨーロッパで出来上がった常識を、アメリカは平然と破ろうとしている。
次に真之がひそかに挙げていることは、戦術家として世界的水準を抜いた人物を二人もこの海軍が持っていることであった。
一人は現職の海軍大学校長・・ である海軍大佐カスパー・グリードリッチである。一人は予備役大佐ながらそれよりもはるかに知名度の高いアルフレッド・セイヤー・マハンであった。このマハン大佐を知らぬ海軍士官は、世界のどの国にもいないであろう。
真之は最初、できればニューポートの海軍大学校に入りたいと思い、日本公使館から国務省を通じて海軍に働きかけてもらった。
が、断られた。
その理由は、海軍大学校は国軍の秘密に関することを取り扱うことが多いということであり、げんに外国人を入校させた先例はない。
このため真之は、
(いっそ、マハン大佐から個人教授を受けよう。二、三度会ってもらうだけでいい)
と思った。が、マハンはしでに現役ではない。このため先ず公使館を通じて現職の海軍大学校長のグリードリッチ大佐に会い、紹介状を書いてくれるように頼み込んだ。グリードリッチは快く承知してくれた。
事がうまく運んだ。
やがて、マハン大佐から真之宛てに面会日を指定してきた。
「とほうもない幸運だ」
と、このことの斡旋をした公使館付武官の成田勝郎中佐が言った。
「君はマハンさんの住み込み弟子にでもしてもらうのかね」
「いや、研究方針さえ教えてもらえばすみます。あとは自力でやります」
と、真之は言った。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
Next