海軍大尉、遣米留学生秋山真之が所属すべき機関は、ワシントンのN街一三二一〇番地の四階建てのレンガ館だった。 日本公使館である。 公使は星
亨とおる だが、その館内の武官室にいる海軍武官成田勝朗かつろう
中佐の監督を真之はうける。 「君はアメリカで何をするのか」 と。成田中佐は最初、聞いた。 「簡単です」 「何のことだ」 「戦略と戦術の研究です」 「そのように命ぜられたのか」 「いいえ」 と、真之は言った。 「自発的スポンティニアスです」 この時代、勃興期にある日本は、海外派遣者に対して細かい規定をしなかった。必要だと思うことは現地で判断し、何でも取り込んで来い、というおおまかなゆきかただった。陸軍の兄の好古もそういうおおまかな命令のもとでフランスへ行き、騎兵を取り込んで来た。 じつは出発にあたって、真之ら派遣の命令を受けた者五人が、築地の水交社に集まって洋食を食った。 ちなみに水交社はすべて洋式で、ビリヤード室からダンス練習場まである。 その席上、真之は、 「ご一同はかの地で何をなさるか知らないが、術技を習うだけではだめだと思います。術技は維新後、多くの人々が行って身につけて帰って来た。海軍も始めの頃はそれが必要だったし、それで十分だったが、すでに日本海軍の草創期は過ぎた。世界のどの海軍も経験しなかった近代海戦も経験した。あの海戦を振り返って思うに軍艦運用など要するに術技の点ではなるほど見事だった。各艦長以下、実によくやられた」 「・・・・・・・・」 みな、あきれた。真之はあの戦争に任官ほどもない若さで従軍し、しかも主決戦場には出ていない。そのくせ、自分の先輩たちのやったことを、まるで提督アドミラル
でもあるかのようにほめているのである。 「しかし戦略、戦術がまずかった。実にまずかった」 「伊東閣下らのことかね」 と、イギリスへ行く財部たからべ
彪たけし 大尉がくすくす笑いながらからかった。 「どなたということではありません。日本海軍全体が、一騎武者としては優秀であっても、一軍を進退させる用兵法にいたってはきわめて劣ると思うのです」 「それで貴官はどうする」 と、ドイツへ行く林三子雄みねお
が聞いた。 「戦略と戦術をやります」 「アメリカでかね」 と、イギリス行きの財部が言う。イギリスは海軍の本場だからそれをやるというのはわかるが。世界海軍界でいえば田舎にすぎぬアメリカでそれをやるというのは少しおかしくはないか、と財部は言うのである。 「いや、アメリカでこそ出来そうだ」 と、真之は答えた。 海軍武官成田勝朗に言ったことについてはそういういきさすがある。
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