やがて子規は熱が出て来たのか、 「あし
はもうねむるぞな」 と言ったため、真之は蒲団の裾の方をたたいてやった。そのあとそっと立ち上がり、やがて正岡家を辞去した。 路地を通って行く。そのあたりで藪すずめがまだ騒ぎつづけていた。 (わすれたな、送別の句をもらうのを) と、思った。 明治二十六年巡洋艦吉野の回航委員としてイギリスに派遣された時、子規は、 「秋山真之ノ英国ニユクヲ送ル」 という詞書ことばがき
で、 暑い日は 思ひ出いだ
せよ ふじの山 という句をよんでくれた。あのとき子規は真之をうらやましがったが、子規ほど地理的関心の旺盛な男はめずらしく、世界というものをこれほど見たがる人物も少ないと真之はかべがね思っている。しかし皮肉なことに、運命はその後の子規を病床六尺に閉じ込めてしまった。暑い日は思ひ出せよふじの山、という句の余韻には、子規のそういう気持がひそんでいるのではあるまいか。日本で世間狭く暮らしているおれのことも少しは思いだしてもらいた、ということが、案外、発想の火だねになっているのかもしれない。 が、子規はこの時も送別の句を忘れてはいなかった。真之が渡米してから新聞
「日本」 に、 「秋山真之ノ米国ニユクヲ送ル」 よいう詞書のもとに 君を送りて 思ふことあり 蚊帳かや
に泣く という俳句を載せた。 真之は、その掲載された新聞をついに見ていない。ワシントンの日本公使館に来た日本人が、その句を真之に教えてくれた。真之はしばらくこの句が頭の隅にこびりついいぇ離れなかった。思ふことあり・・・・・・とは何であろう。 (自分の身・
にちがいない) と、思った。子規ほど、自分の才能に対して自負心の強いお琴はなかった。文学だけでなく、政治家ですら自分は適材であると思っていた。ところが世すぎの職業は、新聞記者になり、しかも社長の陸羯南のような政治記者でない。文芸欄の担当者である。文芸は彼の一生の大仕事ではあったが、一面では、かつて中学生の頃自由民権演説に凝っただけに、どこかで政治こそ男子一代の仕事であるといった気持ちがある。さらには彼の病気が、その新聞記者の実務をさえ彼から取り上げて、病床での原稿書きという生活を強し
いた。若い頃の壮志を思うと、まだ三十というのに人生のすぼまる一方であった。やがて死ぬ、と覚悟しているに違いない。何ごとをこの世に遺のこ
し得るかということを思うと、あの自負心の強い男は、真之のはなやかさを思うにつけ、あの日、真之は去った後、おそらく 「蚊帳に泣」 いたのかもしれない。真之は、そう思った。 |