翌朝、真之は、子規を見舞って当分の別れを告げるべく根岸へ行った。 (どうも気がすすまぬ) と、歩きながら思い、何度か足を止めた。自分はこのように達者で、しかも留学のためにアメリカへ行く。子規はおそらく再起はむずかしいであろう病のために臥
ている。その母はこの対比をどう思うか、ということであった。 (おれらしくもない) と、上野公園の辺りで思い直した。戦術家たらんとする者はまずそういう自分をつくらねばならぬとかねがね思っている。 戦術というものは、目的と方法を立て、実施を決心した以上、それについてやめらってはならないということが古今東西のその道の鉄則の一つであり、そのように鉄則とされていながら戦場という苛烈で複雑な状況下にあっては、容易にそのことがまもれない。真之はそれを工夫した。平素の心がけにあると思った。 「明晰めいせき
な目的樹立、そして狂いない実施方法、そこまでのことは頭脳が考える。しかしそれを水火の中で実施するのは頭脳ではない。性格である。平素、そういう性格をつくらねばならない」 と考えていた。 ともかく真之は行くべきであった。上野公園をぬけて根岸に入ると、大きな門を構えた巨邸ふぁある。あとは小住宅がつづく。ところどころに藪やぶ
があって、藪すずめが短い声をあげている。 真之は、表口に立った。声をかけて戸を開くと、戸のきしむにつれてリンが鳴り、やがて子規の妹のお律が出て来た。 「・・・・・まあ」 と、お律は、目をみはったまましばらく黙った。奥から、咳が聞こえた。客好きの子規が、玄関の客はたれかと思って耳を澄ましているのであろう、そういう様子が真之にも感ぜられた。 「わるいですか」 病状が、という意味である。悪ければこのまま見舞の品を置いて帰るつもりであった。が、お律は、いいとも悪いとも言わず、 「アメリカへいらっしゃるそうでございますね」 と、聞いた。はい、と真之は答えた。その暇乞いに参ったのですが、兄さんの様子がまずければ帰ります、と言った。 咳が聞こえた。 「お律」 と、子規が呼んだ。お律は真之に一礼して、奥へひっこみ、やがて出て来て、だまってうなずいた。いい、というのだろう。 真之は、枕頭にすわった。 「痛むのじゃ」 と、子規は真之を見上げた。 |