二人の官歴を見ると、 秋山真之 明治三十年六月二十六日米国留学被仰付。 広瀬武夫 明治三十年六月二十六日露国留学被仰付おおせつけらる。 とある。同じ日に発令されている。 真之は、いそがしくなった。伊予松山の県人会も、送別会を開いてくれた。 (正岡は来るかな) と、少し期待したが、子規は出席していない。子規は明治二十八年の夏から初秋にかけて松山で静養していたが、十月十九日松山を発って上方のあちこちを歩き、その月末、東京に帰り、ずっと自宅で病をやしまっている。俳句や短歌の会などは、自宅でやっていた。 「去年までは、ときどき会には出ていたが」 と、内藤鳴雪が言った。鳴雪も、ひげにまで白いものが混じってきて老いが目立っている。子規は一種の人気があり、真之の送別会であるのに、話題は子規の消息についてのことが多かった。 「そう、去年は殿さまの会にも出ていた」 と、他の者が言った。去年の一月に久松伯爵の凱旋がいせん
祝賀会があり、久松家にはなにかと厄介になった子規は病躯をおして出席した。 「しかし、新聞などで見ると、さほど悪いようには思えないな」 と、たれかが言う。子規は主に
「日本」 などに俳論や俳句を載せている。むしろ健康なころより発表の量が多くなっていた。 その席に高浜虚子が出席していた。 「正岡の升さんについては清さんが、よくお知りじゃ」 と、たれかが言った。 (清?) 真之は、末座にいる丸顔の若者を見た。見覚えがあったら、杯を進呈しようと思い、」立って行くと、虚子は座り直した。 「高浜君、去年の一月に会うたな」 と、真之は言った。去年の一月というのは前記の久松伯爵凱旋祝賀会のことである。 あの席上、虚子はwずかな酒に酔い、この無口な男がめずらしく声をあげて謡うたい
をうたった。真之も酔っていたから、虚子のそばに来て連吟したが、そのことを真之はさしている。ちなみに真之は幼少の頃、伯父から謡をならった。 「正岡の家を見舞わにゃいけんと思いつつ今日まで忙しさにとりまぎれてしまった。やはり痛むようか」 「痛んでいます。痛みはじめると、いき・・
が出来なくなるほど苦しいらしいです」 この痛みは、松山を引きあげて上方見物中に出たのだが、その後ひどくなった。今は肺病もさることながら、この方の苦しみで寝たきりになってしまっていっる。 はじめはリューマチだと思っていたのだが、去年の春、その方面の専門医に見てもらうと、これは結核性の脊髄炎であるということが分かり、それまで自分の不幸に堪えに堪えて
「地が裂け、山が砕けてもこれ以上は驚かぬ」 と言っていた彼も、この病名には驚かされた。この三月には手術を受けたが、その結果はあまりよくなく、しだいに腰が立たず、家に看護婦を置くまでになっている。 |