〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-X』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(二)
 

2014/12/17 (水) 

渡 米 (六)

どうもこの連中は、後の日本人よりもよほどその生涯の姿や生き甲斐なりが単純で、その意味だけで幸福だったように思われる。
たとえばこの広瀬武夫、秋山好古という二人の海軍大尉はのち、イギリスで落ち合い、当時、日本が同国に注文してヴィッカース造船所で建造されていた戦艦三笠の姉妹艦朝日を見学し、この雄大さに驚き、艦内を見学したあと、甲板でならんで記念写真を撮った。
「これはとうほうもない記念写真になる」
と、真之は気負いこんで言った。その意味は、まず背景が世界最大の軍港だということである。立っている場所は日本第一の大艦朝日でり、 られている二人は、
「日本海軍のホープだ」
ということであった。この昂奮はきわめて子供じみてはいるがその子供じみた昂奮がじかに小さな規模の日本の充実と前進ということへつながるということにおいて、幸福な時代だったというほかない。彼らは人間存在についての懐疑哲学にとらわれることがあまりなかった (真之の方は日露戦争後にその深淵に落ち込んだが) ようであった。
広瀬と真之との同居生活は、数ヶ月で終わった。同居しているとかえって互いの勉強の邪魔になるということがわかったことと、ほかに真之の母のお貞が、
「淳や、一軒、家をお持ち」
ということを、かねがね言っていたが、いよいよかっこうな家をお貞が見つけて来たからである。場所は、芝高輪しばたかなわ の車町であった。真之は、自分が可愛くてしょうがないらしい母親のために共に住むことにした。
「淳や、きじ がきたよ」
と、ある日、帰宅すると母親が言った。このどこか童話的なあまさとおかしみを持った老母は、いつも不意にそんなことを言う。真之はこの母親のことだから、雉まで呼んで来て家で遊んでいるのではないかとふと思った。
が、生きた雉ではなく、伊予の親類が送ってくれた食用のための雉であることがわかった。
「じゃけん、雉鍋をおたべ、広瀬さんも呼んでおあげ」
と、お貞は言った。
翌日、広瀬がやって来た。
席上、お貞が 「升さん」 の話題を出した。升さんも病気でなければ呼んであげるのにねと言う。
「升さんというのはどなたですか」
「あら、あなたさん、ご存じなかったかなもし」
と、お貞は頓狂とんきょう に言って、自分のうかつさに笑いだした。むろん、升さんとは正岡子規のことであった。お貞はついつい、広瀬を錯覚して、松山の士族屋敷町の生まれのように勘違いしてしまったらしい。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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