東京には、二人ともそれぞれ兄が住んでいる。真之の兄好古は四谷の信濃町十番地に住んでいたし、広瀬武夫の兄の勝比古
(海軍大尉) は麹町
上六番地に住んでいた。 広瀬は兄嫁にもなついていたが、真之の母お貞にもなついていた。 「お餅がきとるけに・・
」 と、あるとき、真之の母からの知らせがあった。松山の親戚から餅を送ってくれたという。それを食うために日曜日を選び、二人は揃って家を出た。 ちなみに、彼らの借りている家の向かいに大きな屋敷がある。そこの女中が後にこう言ったという。 「広瀬さんは顔がいかつくて武張ぶば
った人だったが、知り合ってみるとたいそうやさしかった。逆に秋山さんは顔はそれほどでもないが、胆きも
から電気が出ているようで、おそろしくいて近づきにくい感じがした」 そういう真之を、母親のお貞はどの子よりも好きで、子供のときと同じ態度で可愛がった。 「淳じゅん
や、早う家をおもち」 と、口癖のように言った。真之が家を持てばそこで一緒に住みたいというのがお貞の魂胆だし、念願でもあった。どういうわけかこの一番無愛想な末っ子が可愛いのである。 その真之の友達だから、お貞は広瀬に対しても自分の子供のように可愛がった。 このとき、餅を食った。 「競争をするか」 と、広瀬が提案した。どちらも明治元年生まれの三十歳だからまだまだ食欲がさかんで真之は十八個食った。しかし広瀬は二十一個食って勝った。 「広瀬さん、ようあがりなしたなァもし」 と、お貞は手ばなしでほめたが、広瀬はさすがに苦しげだった。そいう広瀬のためにお貞は自分で台所に立って大根をおろしてやり、食べさせた。 「祖母も、よく大根をおろしてくれました」 と、広瀬は、またしても祖母の話をした。祖母のことを思い出すと涙が出るのだ、とも広瀬は言った。 彼の故郷は、豊後ぶんご
(大分県) 竹田である。竹田に城を持つ岡藩という小藩の士族で、父の友之允とものじょう
(重武) は幕末に京へのぼって勤皇活動をし、藩の政治犯になり、数年の間獄にいた。維新後、裁判官になり、各地を転々とした。飛騨ひだ
の高山の区裁判所長のとき、広瀬はその高山の小学校を卒業した。冬、父が岐阜へ転任した。家族を残し単身赴任すべく雪中を駕籠かご
で出発したのだが、広瀬はそのあとを追い、途中で追いつき、 「ついて行きたい」 と懇願した。のぞみは東京へ出て学問をしたいということであった。祖母のもとには書置きを残してきたという。が父は広瀬を追い返した。 広瀬は高山の家へ戻ったが、さすがに悲しく縁先にすがって泣いたという。そういう広瀬を、祖母は言葉をつくしてなだめた。やがて祖母のとりなしで東京へ出ることが出来たのだが、あの雪の夜の祖母の優しさだけは忘れられない、と広瀬はお貞に語った。 |