帝政ロシアは、極端な侵略政策をとっている。その勢力は沿海州、満州から南下して朝鮮にいたり、日本を圧迫しつつある。 日本の悲痛さは、このけたはずれの大国であるロシアを敵として仮想せねばならなかったことであろう。明治二十九年十一月、八重山に乗っていた真之が、下艦して
「軍令部出仕」 を命ぜられたのも、こういう背景と濃厚なつながりがある。 「海軍軍令部諜報課課員ニ補ス」 というのが、その辞令である。海軍では戦略・戦術の才能のある士官を選んでこの任務に就かせたのはむろんきたるべき大戦を予想してのことであった。 広瀬武夫に対しても、同様である。 彼は真之よりやや遅れて翌三十年の三月に磐城から降ろされ、軍令部出仕になった。同じ諜報課の課員である。やがてそれを免ぜられ、真之はアメリカへ、広瀬はロシアへ行かされるのだが、表向きは別な官命であるにせよ、海軍が期待した彼らの役向きはおそらくこの諜報課員の仕事の延長であったであろう。 両人がこの軍令部へ通っている時期、 「いっそ、二人で一軒借りよう」 と、どちらからともなく言い出し、諸事気の早い真之が麻生霞町
に家を見つけ、二人でそこに住んだ。同宿した主目的は、互いの海軍研究を好感し合うためであった。 広瀬は、この期間、ロシア語の勉強に熱を入れている。ついでながら、この広瀬武夫を比較文学の研究対象にするという画期的な仕事をされた実践女子大教授島田謹二氏の名著
「ロシアにおける広瀬武夫」 によると、広瀬は少尉当時からロシアに関心を持ち、ロシア語を独習しようとしたという。 たまたま兵学校の頃の教官であった八代やしろ
六郎大尉 (のちの大将) は、彼の教え子の中では真之と広瀬とをもっとも愛していたのだが、この八代が日清戦争の少し前、諜報勤務のためウラジオストックに派遣され、現地でロシア語を学び、帰国した。広瀬は、この八代に手ほどきを受けた。その後、戦争になって八代も広瀬も出征した。 戦後、様々の手づるをもとめてロシア語を少しずつ仕入れた。文献も集めた。 島田氏によると、広瀬の死後、兄の勝比古かつひこ
から東京外国語学校 (現在の東京外国語大学) に寄贈された彼の蔵書 (ロシア語学、ロシア文学、ロシア地誌、ロシア軍事関係)
は百三十冊におよぶという。現在も同大学の書庫にある。 「広瀬は、ロシア研究をしているらしい」 ということが、海軍仲間で噂になり始めた頃、海軍省で海外派遣士官の人選があった。それぞれとびきりの秀才たちが選ばれた。英国へは広瀬と同期の財部彪大尉、フランスへは村上挌一大尉、ドイツには林三子雄みねお
大尉、アメリカへは秋山真之大尉といったふうであったが、ロシアには兵学校の卒業席次が八十人中六十四番というきわめて劣等な広瀬武夫が選ばれた。偶然、広瀬のロシア語熱が、こんな機会に生きてしまったのである。 |