真之は戦後、大尉になった。 その間
、横須賀にある海軍水雷術練習所の学生を命ぜられたりしたが、やがて二十九年五月十一日、 「横須賀水雷第二水雷艇隊付ニ補ス」 という辞令をもらった。 「広瀬大尉もそこにいる」 と、軍令部の上官が言った。 兵学校の二期上でとくに親しかった広瀬武夫のことである。広瀬は日清戦争中は
「扶桑ふそう 」 という古い船に乗って旅順口の掃海そうかい
などをやっていたが、戦後、横須賀でこの社会のいう 「水雷屋」 になった。 たまたま真之が赴任する第二水雷艇隊に広瀬も先月まで艇長でいた。 「一緒になったなあ」 と、横須賀の兵舎で、広瀬が同じことを何度も言った。広瀬も、二期下ながら真之にもっとも強い友情を持っていたらしい。 風変わりな男で、兵学校の頃から柔道に熱中し、任官後も暇を見つけては東京の講道館に通い、嘉納かのう
治五郎から直接の指導を受けていた。明治二十三年 「海門」 乗組みの少尉候補生のころ講道館紅白大試合に出場し、黒帯五人をつづけさまに投げ六人目でやっと引き分けになったという講道館開設以来初めてという記録を立てた。 この男も、独身主義者だった。 「おれには嫁が多すぎて困る」 と言っていた。彼のいう嫁とは、海軍と柔道と、もう一つは漢詩だった。 日清戦争の従軍中にはふんだんに創ったが、例えばそのうちの一つに、 借問しゃもん
す、人生はたして幾年なりや 男児、命めい
を楽しみ又天を知る 滄溟そうめい
到いた るところ骨を埋むるに堪た
う 要らず、青山せいざん
に墓田を卜ぼく するを というのがある。その詩が素朴であるように、この男の人生の概念も素朴で簡潔で、簡潔に生死することだけを日常の哲学にしていたようであった。 が、二ヵ月後には別れた。軍人の人事はめまぐるしく、広瀬が
「磐城ばんじょう 」 の航海長に転じて行き、真之は
「八重山」」 の分隊長に転じた。 広瀬が磐城の航海長になった早々、彼の祖母が八十歳になった。祖母は智満ちま
といった。幼時に母を失った彼は智満に育てられたということもあって大いに喜び、たまたま磐城が長崎に入ったので上陸して写真を撮った。祖母に送るためであった。一枚は海軍大尉の正装で撮った。その撮影が終わると、彼は上衣を脱ぎ、ズボンを脱ぎ、やがて下帯だけの素っ裸になり、 ──
これで一枚たのむ。 と、写真館主にせまった。館主はしかたなくその裸体を撮った。広瀬はその写真の裏に一文を書いて祖母に送った。 「吾われ
ヲ生ムハ父母、吾ヲ育はぐく ムハ祖母、祖母八十ノ賀、特ニ赤条々せきじょうじょう
、五尺六寸ノ一男児ヲ写出シテ膝下しっか
ノ一笑ニ供ス」 変わった男である。 ところで、翌三十年になって真之とはまた一つところに勤務することになった |