好古が、内地に凱旋
すべく柳樹屯にまで下って来たのは、五月二十日すぎである。 数日前に従軍中の子規がこの辺りを去っていたから、互いに行き違って会うことがなかった。 好古は、このころ騎兵中佐に昇進した。騎兵第一大隊の大隊長であることはこれまで通りであった。 その麾下きか
大隊とともに柳樹屯から軍用船に乗り、五月三十一日宇品港に入った。その日広島で宿営した。 「副官、あし・・
の行李をあけてくれんか」 と、好古は宿舎に着くなり言った。副官の稲垣三郎中尉が好古の将校行李を開けると、月給袋が束になってつまっている。 戦争中の数ヵ月分の給料であった。 「みなで凱旋祝いをやれ」 と、全額渡してしまった。この明治陸軍の草分けのころに生きた男は金銭については常にこのようであり、留守宅の生活費ということについてはほとんど留意しないという習癖ふぁあった。 翌二十九年、転じて陸軍乗馬学校長に補せられた。好古はここで騎兵の教育をし、その戦術能力を高めることに努力した。 「軍作戦の大局が分からなければ騎兵将校はつとまらない」 というのが好古の自説であり、ヨーロッパの軍事界ではそれが常識であったが、日本の場合、その点がきわめて未熟であった。好古はこの時期から文字通り日本騎兵の師匠になった。 戦後、騎兵の装備も、やや充実をみた。この年の二月、銃身の短い連発式騎兵銃ががじめて各隊に交付され、それまでの歩兵銃が廃止された。 三月、師団が増設されて全部で八個師団になり、それに連れて騎兵も増設され、それまでの二個中隊編制で一個大隊という単位であったが、三個中隊編制になり、同時に大隊の称をやめ、連隊と称せられた。 このころ、ロシアを主役とする三国干渉などがあって、日本に対するロシアの圧迫が大きくなっており、早晩ロシアと兵火を交えねばならぬということが常識になりつつあった。軍は、対露準備をしつつある。 明治三十年、好古は軍当局の騎兵用兵についての無智を改めさせるため
「本邦騎兵用兵論」 という論文を書き、騎兵監をへて軍当局に提出した。軍事論文としては歴史的な名論文とされた。 「本邦にいまだ騎兵の名将なし」 と、彼は書く。 「しかしながら無きを哀しむ必要なし、無きが至当なればなり。欧州諸国といえども、数百年来、幾千の騎兵将校ありといえども真の騎兵の名将と称すべき者は実に僅々きんきん
一、二名にすぎず・・・・・」 翌年、日清戦争の体験に基づき、騎兵操典が改正された。初期の翻訳操典から日本独自のものに変わった最初の操典であった。 |