これより以前、好古は結婚した。 ついでながら秋山兄弟の結婚観は、いかにもこの時代の日本人らしい気負
いだちが基盤になっている。 「軍人は結婚すべきではないんじゃ」 と、好古はかねがね言っていた。ある時松山出身の若い士官が三十前で結婚し、その挨拶にやって来たところ、好古は目を三角にして、 「ばかなことをしたもんじゃ」 と、吐き捨てるように言った。 このあたりが、奇妙である。 好古の頃の日本は、いわばおもちゃのような小国で、国家の諸機関も小世帯であり、その諸機関に属してその部分々々を動かしている少壮の連中は、自分の一日の怠慢が国家の進運を遅らせるというそういう緊張感の中で日常業務を進めていたし、げんにそれらの連中個々の能力や勤怠がじかにその部分々々の運命にかかわっていた。 このため好古は、 ──
結婚をすれば家庭の雑事にわずらわされて研究もおろそかになり、ものごとを生み出す精神がぼけてくる。 というような説を立て、同僚や後輩たちに向かってもそう主張していた。 「科学や哲学は、ヨーロッパの中世の僧院の中から起こった。僧侶たちは独身であるため、自分の課題に対しわき目もふらずに精進することが出来た。そのようにたとえ凡庸な者でも一心不乱である限り多少の物事を成し遂げるのである」 そういうのが、彼の独身論である。むろんこのことは弟の真之にも強制した。 「情欲が起これば、酒を飲め。諸欲ことごとく散ること妙である」 と、教えた。 真之もその気になり、 「たいがいの人は妻子を持つとともに片足を棺桶かんおけ
に突っ込み半死し、進取の気象おとろえ、退歩をはじむ」 と、このような文章を書いたことがある。真之はすでに海軍技術を確立することに生涯を捧げることを心に決めていたが、そういう自分に対し、 「凡俗の幸福は求むべきにあらず。おのれを軍神の化身なりと思え」 と、規定するようになっていた。このような自分の
「事業」 を、 「一生の大道楽」 と、そういう表現を使っている。 ところが日清戦争の前年、好古の方が結婚した。齢よわい
三十五である。 その前年、松山に残っていた母お貞に家を引き払わせ、東京へ呼んだ。はじめて一家を構えた。家は四谷の信濃町しなのまち
十番地にもったが、しかしこのため一家の宰領者が必要になった。好古は結婚することにふみきった。 新婦は、好古が少尉の頃に下宿していた旧旗本の佐久間の長女多美であり、齢二十四歳である。 |