この時代の日本人は、そういうものであったのかも知れない。 隣国のシナは日本人にとって長い歴史の時間、文科と文明の模範として尊んで来た国であった。 それと戦い、一朝にして破ってしまった。伊東の勧降状には、何やらそれを気の毒がる気分が底にある。だから、貴国も強くなり得る、それは秩序を一新することだ、と勧めているのである。滑稽なほどのお節介だが、伊東は真剣であった。その真剣さは、かつて師匠の国であったことについての感傷だけでなく、ヨーロッパの技術文明の前に危うく国が滅びようとしたその同じ条件下に清国もまた置かれつづけていることへの同情も入っている。 伊東の文章は続く。まるで丁汝昌ろ同憂の同志のような調子である。 「スデニコノ否塞
ノ運ニ際ス」 すでに清国は八方ふさがりになってしまった、という意味。 「いま清国の臣子たる者、なかでも国家のために忠誠を尽くそうという気愾きがい
のある者なら、老朽化しきっているこの秩序のなかで、ただその日暮に身をゆだねていておおものであろうか。なるほど、かがやける歴史と広大な領域をもつこの世界最古の帝国を、いま一朝に革新することは容易なことではない。しかしそれをやらねば貴帝国はどうにもならぬ。そういう大事業から見れば、一艦隊の存亡などはたかが知れている。降伏したところでなんのことがあろう。今は小さな節操にこだわるべきではない」 「是ここ
ニ於おい テ」 と、公式訳文はいう。 「僕ハ世界ニ鳴轟めいごう
スル日本武士ノ名誉心ニ誓イ、閣下ニムカッテシバラクワガ国ニ遊ビ、モッテ他日、貴国中興ノ運、真ニ閣下ノ勤労ヲ要スル時節到来スルヲ竢ま
タレンコトヲ願ウヤ切ナリ」 日本に亡命して時節を待て、という。亡命については世界に鳴る日本武士道が請合う、と言うのである。 「閣下、ソレ友人誠実ノ一言ヲ聴納ちょうのう
セヨ」 さらに伊藤は例を挙げていう。普仏戦争に時、ドイツ軍のためにセダンで包囲され、城兵とともに降伏したマクマオン将軍のことをいう。いったん捕虜になった彼は休戦後釈放され、フランスに帰り、のち大統領にまでなった。 「かのフランスの将軍マクマオンのごときはひとたびくだって敵国にあったが、時期を待って帰り、本国政府の改革をたすけた。しかもフランス国民はこれに辱しめを与えないばかりか、これを大統領にすら推選した。さらにトルコのオシマン・パシャのごときも、プレヴィナの一戦で敗れ、その身は捕虜になったが、ひとたび国に帰るや陸軍大臣の要地に立って軍制改革の偉功ををたてたではないか」 この伊東の書簡には、陸軍の大山巌も署名した。港内の旗艦にいる丁汝昌の手に入ったのは一月二十四日である。 彼はそれを読み終わると、左右に示し、 「伊東中将の友情には心を打たれるが、しかし私はみずからに従う」 とのみ、言った。返書は出さなかった。
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