北洋艦隊の滅びは、それから十数日経った二月十二日に来た。 丁汝昌はその隷下軍隊の不穏な空気に絶望し、その前夜ついに降伏を決意し、夜が明けるとともに軍使を用意した。 彼の用意した軍艦は、砲艦鎮北である。そのマストに白旗を掲げ、港外に出した。 午前八時、鎮北は松島の正面に現れた。 「咨会
ノ事ヲナス」 という文章から始まる漢文の乞降書きっこうしょ
が伊東裕亨にもたらされたのはこの時である。 その要旨は、 「自分はさきに伊東司令長官の書簡に接したが交戦中なるをもっていまだ返翰きへんかん
を呈していない。自分ははじめ、あくまでも決戦して艦沈み人尽きてから已や
もうと思っていたが、今は気持を変え、生霊を保全しようとし、休戦を請うしだいである。いま劉公島にある艦船と同島の砲台兵器はすべて貴国に献ずる。よって戦闘員と人民の生命を傷害することなく、かつまた彼らをして故郷に帰ることを許されよ」 というものであり、伊東はそれを許し、複書をつくり、清国側の軍使程璧光ていへきこうに渡した。さらに丁汝昌に対し、ころ柿、シャンペン酒、ぶどう酒を贈った。 翌十三日午前八時半、それについての丁汝昌の復書をたずさえて清国軍艦鎮中がやって来た。 丁の復書には、伊東の受託を深く謝し、かつ前記慰問の品々については、 「両国有事ノ際、私受シガタケレバ、ツツシンデ返上ス」 と書き、げんに送り返して来た。 軍使は、昨日の程壁光である。程はそれらの公務を終わると、やがて辞色をあらため、自分が乗って来た鎮中のマストをさし示した。半旗が掲げられていた。 昨夜、丁汝昌が毒をあおいで自殺したという。 午前十一時、伊東裕亨は全艦隊に対して丁汝昌の死を知らせるとともに奏楽を禁じて弔意ちょうい
を表した。 このあと午後五時、降伏後の処理条件の打ち合わせのため程壁光にともなわれて牛昶モぎゅうちょうへいが松島に来艦し、日本側と協議した。 その諸条項のうち、清国側の提案として丁汝昌以下死者の柩ひつぎ
をジャンク (シナ式帆船) に乗せてその故郷へ送るということがあり、これについて翌日、伊東はそれを不可とし、 「丁提督といえば久しくその威名をアジアにふるった北洋艦隊の司令長官である。彼の柩を送るのに一葉のジャンクを用いるなどはもってのほかであり、このため威海衛における没収艦船のなかから商船康済号のみをはずす。この康済号に柩を乗せ、それに余地があれば帰還兵員を乗せてもかまわない」 とした。 降伏訂約書に双方代表が署名したのは、二月十四日である。 ひるがえって正岡子規についていえば、この前後に彼の従軍が決定している。 |