〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-X』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(二)
 

2014/12/13 (土) 

威 海 衛 (十)

その降伏をすすめる書状というのは、
「つつしんで丁提督閣下に呈する。時局の移り変わりは、不幸にも僕と閣下をして互いに敵たらしめるに到った」
というところから始まる。
「しかしながら、今の時代の戦争は国と国との間の戦争であり、一人と一人との反目ではない。だから僕と閣下との友情にいたっては依然として昔ながらの温かみを保っているものと信ずる。それゆえに閣下はこの書をもって単に降伏をうながす性質のものとは受取らず、僕の心のいま深く苦しんでいる所を洞察し、それを信じて読んでくださることを乞い願う」
「貴国の陸海軍がいま連戦連敗しつつあるのは、おもうにその原因するところはいろいろあるとしても、その本当の原因はおのずから他にある (軍隊統率以外にある) 。このことは心を平らかにして観察すればたれしも気づくところであり、閣下の英明をもってすれば百もご承知であろう」
「夫レ貴国ノ今日アルニ至リタルハ」
と、公式の訳文は文語体である。清国のこの敗戦に至った原因は、という。
「もとより一、二の君臣の罪ではない。制度が悪いのである。その従来墨守してきた清国の制度の弊こそこの主要原因である。たとえば、官吏を採用するに当って、文章試験を行い、文芸の士を官僚に採用する。それが階をすすめて政治をとるにいたる。その制度はすでに千年前ものものであり、依然として千年後にもそれを墨守している。なるほど制度そのものからいえばこれは必ずしも善美でないとはいえない。たとえば清国が世界から孤立しているという状態におくならばである。しかし一国の孤立独往は、こんにちの世界情勢ではのぞむべくもない」
「三十年前」
と、伊東は維新前後をいう。
「わが日本帝国がいかに困難な境遇にあり、いかに危険な災厄をのがれ得たかということは閣下のよく存ぜられるところであろう。その当時の日本は、自分の独立をまったくする唯一の道は、一国の旧制を投げ捨てて新しい秩序に切り替える以外にないと思い、それを唯一の要件とし、それを断行した。そのおかげで今日の状態を得た。貴国もこれをなさらねばならない。これを要件となされよ。もしそれをしなければ早晩滅亡をまぬがれぬであろう」
要するに、清国も明治維新をやれという。秩序を入れ替えて国家を新品にする以外に清国の生きる道はなく、それをせねば亡国あるのみと伊東は言う。かつて維新の主導勢力であった薩摩藩の出身である伊東は、その効能のよさをたれよりも知っていた。だから敵将に対し貴国もそれをやれという。やれば強くなるというのである。ふしぎな親切であり、古今を通じてこのような提案を敵将に対して申し送った例はなかったであろう。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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