このころ、伊東裕亨が乗っている旗艦松島は、陰山口の湾内にいる。この湾の北の岬である百尺崖を西に廻ればすでに威海衛の港口であり、いわば敵に対し屏風びょうぶ
一枚のかげに潜んでいるようなかたちであった。 一月の下旬、いよいよ寒気はげしく、波浪騰あが
り、波が松島の船端を打つたびに凍った。 錨のくさり、魚雷防御網は氷のために数倍の大きさになっている。天窓も昇降口も側渠そくきよ
もことごとく、氷でとざされ、水兵がそれを砕くあとから波が寄せて凍らせた。 いや、砲門や砲楯ほうじゅん
まで凍ってしまっている。砲?ほうとう
まで氷結したため、かんじんの砲尾機関である閉鎖器まで動きにくくなった。 「巨艦一白玲瓏いっぱくれいろうトシテ大だい
玻璃はり 塊かい
ノゴトキ奇観ヲ現あらわ セリ」 と記録にある。 南国育ちの伊東裕亨は、司令長官室に小さな火鉢を入れてたえず抱いていた。 彼は、第一回の水雷攻撃より以前、あることを考えていた。 丁汝昌に降伏をすすめることであった。日に何度も、 「丁汝昌が可哀そうじゃ」 と、言った。薩摩人の作法として戦国の頃からすでに敗敵に寛容を示すというところがあり、くだって戊辰戦争の時も五稜郭に籠る榎本武揚えのもとてけあき以下に名誉を保全させつつ降伏をすすめたのも薩摩人であった。伊東はそれをしようとした。 が、陸軍との協調を保つためにすでに上陸戦闘中の第二軍司令官大山巌にこれを相談しようとした。
彼はまず彼の参謀長の鮫島さめじま
(員規かずのり
) 大佐に意を含め、金州城にいる大山巌にそのことを相談させた。ついで彼みずからが上陸し、大山とはかった。同郷で同じ発想をする大山は当然ながら賛成であった。 「陸軍で起草してもらおうか」 と、伊東は言った。その方が、調和上いいであろう。大山は、その事も賛成した。 伊東が盛るべき内容を言い、それを陸軍側が英文で起草し、著名は海軍の伊東がする、というかたちをとる。 起草者は、陸軍参謀の少佐神尾光臣かみおみつおみ、軍司令部づきの有長雄がそれに当った。 伊東は、丁汝昌と親しかった。丁がかつてその艦隊を率いて日本訪問をしたとき、伊東は日本側の接待委員の一人としてこれと懇親した。伊東はかねて、 「丁汝昌が日本人なら、どれほどよいか」 と言っていた。意味はよく分からないが、丁ほどの人物が日本人なら日本のためによほどの仕事が出来るという意味か、それとも今の清国に生まれ合わせたのはああいう型の人物としては不幸であるという意味を込めたものか、そのどちらであるにせよ、伊東が丁に対して古風な友情を抱いていたことはたしかであった。 |