要するに日清戦争は、老朽しきった秩序
(清国) と、新生したばかりの秩序 (日本) との間に行われた大規模な実検というような性格を持っていた。 丁汝昌は、ともかくもこの頽勢
をひとりの手で支えようとした。 が、日本軍の連日の水雷攻撃のため次々と艦艇を失い、そのつど水兵の士気は低下し、厭戦えんせん
気分が充満して将校の生命さえ危険になった。 二月七日、港外の日本艦隊は終日港内へ砲弾を送った。港を見下ろす山々の砲台のほとんどは日本陸軍に占領されており、そこからも砲弾が落下してきた。その一弾が港内の日島にっとう
にある火薬庫に落ち、大爆発を起こし、次々に誘爆して悲惨な状況になった。 この日、水兵と劉公島りゅうこうとう守備の陸兵の間に動揺が起こり、銃剣をもって丁汝昌をおどそ降伏を強し
いようという気配さえ見えて来た。 丁汝昌はこれを鎮めるために、 「援軍が来る。しばらく固守せよ」 と、掲示した。援軍の来るあてがないことは丁汝昌こそ知っていたが、この掲示で水兵たちはやや鎮静した。 九日、港外から飛来した日本の砲弾が巡洋艦靖遠せいえん
の火薬庫に命中し、一瞬で轟沈した。 乗組員のほとんどが死んだ。このため水兵たちはいよいよ動揺し、反乱寸前の状態になった。 定遠の艦長劉歩蟾りゅうほせん
は、部下の離反を嘆き、拳銃自殺を遂げた。 海軍協力の陸軍部隊長である張文宣は部下から白刃でおどされ、丁汝昌に降伏をすすめることを強制された。 張はやむなく承知し、鎮遠の司令長官室に丁汝昌を訪ねて、部下から強制されたとおりのことを丁に強要した。その張の入室とともに鎮遠の水兵たちも室内になだれ込み、丁汝昌を前後左右から取り囲んで口々にわめいた。 さらにその交渉の場所に、残存艦の艦長も部下から強制されてやって来、もはや兵の間に反乱気分が濃厚でありこれ以上戦い続けることが出来ないと言い、降伏の決断を乞うた。 丁汝昌は立ちあがり、一同をしずめ、きわめて穏やかな調子で、 「諸君の部下が、この汝昌を殺そうというのならすみやかに殺せ。自分は身命を惜しむ者ではない」 と言うと、意外にも、座中、丁汝昌の悲愴ひそう
さにうたれて泣き出す者が出た。丁はこれを見てまだ戦えるかとわずかに望みを持ち、このあと艦上に水兵を集めさせ、ドイツ人幕領のT・H・スクネルに依頼し、軍人たる者の心得をさとさしめた。 が、無駄であった。 十一日、丁汝昌は決断し、諸将を集めて会議し、あたたな提案をこころみた。むろん降伏でなく、 「重囲を破って脱出しよう」 ということであり、彼はその脱出戦において戦死しようとした。 が、どの艦長も無言であった。彼らはそれぞれの部下の水兵から白刃をもって脅迫されていた。丁汝昌はついに衆に押しきられ、降伏を決意せざるを得なくなった。
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