〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-X』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(二)
 

2014/12/10 (水) 

威 海 衛 (六)

北京政府は、丁汝昌の能力を頭から疑っている。
このため、政府は彼の周囲に大勢の外国専門家をつけた。この点は、元来陸軍出身の丁にとって助かったであろう。丁の部下たちも、丁の命令よりもむしろ外国人専門家の指示を重んじた。
北洋艦隊がいよいよ威海衛で腰を据ええることになった時、北京政府はさらにそういう専門家を増派した。港湾防御のための技術者として例の湾口の防材を敷設したドイツ人アルベルト・ネルゼンがやって来たのもそういう事情による。ネルゼンが、もともと清国政府に雇われたのは関税の経験者ということのためであり、これまでは関税用汽船の飛虎号の船長をしていた。
ちなみに、清国はその持ち船の船長の多くは傭外国人であった。そのなかで金竜号、白河号の船長であった英国人ジョン某も北京政府の要請で威海衛にやって来て、丁の幕僚になった。
さらに北京政府は丁汝昌に対し、
「一意専心、威海衛港ヲ恪守かくしゅ シ、残余ノ艦隊ヲ保全セヨ」
という命令を下し、かたく港外出撃を禁じた。丁はこの命令に縛られていた。
現実においても、とうてい港外艦隊と決戦出来るような実力がないことを丁汝昌も知っていた。問題は艦の数ではなく、海兵の能力が日本艦隊に比べて各段に劣ることが黄海の一戦でわかった。このため威海衛の港内にあって兵員を訓練しようとした。とくに砲員の技術が劣りすぎているため、その訓乱を主眼にした。
「勝手に退艦し、または脱走する者は私刑に処す」
という命令も出した。わざわざそういう命令を出さざるを得ないほどに兵員の士気は低下していた。
ついで、丁汝昌の不幸は、そのもっとも信頼していた部下の林泰曾大佐を失ったことであろう。
彼は鎮遠の艦長で、海軍技術に優れていただけでなく、勇敢で忠誠心は強く、北洋艦隊のたれもが推服していた偉丈夫であった。明治二十四年この艦隊が日本を訪問したとき、みるからにさわやかなこの人物の風姿が、各地の芸者たちを騒がせたほどであたあ。
彼の鎮遠はこの冬、登州府の海域を巡航して、やがて帰港しようとしたとき、港の西口の魚雷の浮標を避けようとしてあやまって暗礁に接触し、艦底を傷つけた。
その事故の責任をとるため、この人物はその夜、毒をあおいで死んでしまった。自殺の直接の原因はこの事故であったかも知れないが、彼はかねがね将士の戦意が、ほとんど軍隊の体をなさぬまで衰えてしまっているのを嘆き、戦いの前途に絶望していあた。彼にすれば生きて敗戦を見たくなかったのかも知れなかったが、その自殺は艦隊の上下に衝撃を与え、士気をいよいよ低下させた。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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