のち太平洋戦争における最後の首相になった鈴木貫太郎は、この当時、海軍大尉で水雷艇の艇長であった。 防材の破壊を命ぜられたのは一月三十日だったが、出かけてみると敵の砲台からの砲撃がさかんで、作業は不可能であった。 翌日から荒天がつづいた。水雷艇は五〇トンほどのもので、波にもまれて進むことも出来ず、結局、二月三日、海がないだのを見計らって出撃した。 その夜は月があり、海面には薄氷が張っており、 「艇が進むに従って氷がさけ、氷片が両舷にシャリンシャリンと微妙な音をたてた。なんとなく快い心持の晩であった」 と、その晩年での談話速記にある。これによって防材の一部破壊に成功したが、しかしほんの僅かに通路が開いただけであった。 夜襲は、五日未明に行われた。 参加したのは、十隻である。魚が進むように縦隊をもって進んだ。波をかぶるたびに艇に氷が張り、甲板で足をすべらさぬように水兵たちはわらじをはいて作業をした。 防材の線に達したときはすでに月が落ち、
「瞑色 、海ヲ蔽おお
ウ」 とある。 防材を突破して港内に入ったが、あまりに暗いために各艇がばらばらになってそのあたりをさまよい、やがておのおのが敵艦を発見してそれぞれ魚雷を発したが、発射薬がしめって魚雷が出なかった艇もあり、味方同士が衝突したのもあり、帰路暗礁あんしょう
に乗り上げたのもあった。その間、敵が撃ち始めて海がわきたったが、幸い撃沈された艇はなかった。 ともかく手さぐりで港内をかきまわして帰って来たが、どの艇も戦果が確認出来ず、この世界最初の水雷攻撃も失敗に帰したかのようであった。 が、
「松島」 座乗の司令長官伊東裕亨はこの攻撃法に望みのすべてを托し、その報告を陰山口いんざんこうで待っていた。早暁、鈴木大尉は帰りつき、松島にのぼって伊東の部屋に入った。 「成績はどうか」 と伊東は聞いた。鈴木は、 「成績はわかりません。私の方の水雷も凍ってしまって出ませんでした」 と、正直に答えた。伊東はにがい顔をした。 「港内の敵艦を見たか」 「見ました。が、沈没した様子がありません」 と言うと、伊藤は、 「チェストー」 と吐き出すように言ってうしろを向いてしまった。薩摩人が、気分の昂揚したときや腹の立つときに使う言葉である。 が、あとで意外なことがわかった。敵の最強艦であり、丁汝昌の旗艦である定遠が日本の魚雷攻撃にために撃破されていたのである。 |