〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-X』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(二)
 

2014/12/07 (日) 

威 海 衛 (二)

このロシア海軍のクラード大尉というのは、威海衛作戦の観戦武官の一人である。
この講評は、この作戦のあった年 (1895年) の十二月十五日、ロシアの海軍兵学校における特別講義のかたちで行われた。それが翌年、同国の海軍雑誌に掲載された。
この当時、ロシアは清国に味方し、日本に対してきわめて感情的であったが、クラード大尉の講評にもどこかそれが出ている。
「日本艦隊は戦略において劣っており、われわれロシア側にとって好参考になるような教訓はひとつもない。ただ、日本人は戦術において優れている。戦術という点ではどの角度から見ても彼らは巧妙であった」
もっとも日本海軍が戦略においてどのように劣っていたかについては、クラード大尉の講評は少し概念的で具体性に乏しく、さほどの説得力はない。クラードの指摘のもとも重要な点は、伊藤艦隊が、海軍戦略の主目的である海上決戦を回避した、ということにあるが、この点は伊東に対してはなはだしく酷である。伊東はそのつもりであった。さまざまの苦心をはらって北洋艦隊を威海衛から引きずり出そうとしたが、丁汝昌は湾内にかくれて出ず、ついに一度も出なかったため洋上決戦は物理的に不可能になった。
「敵の艦隊を撲滅・・ すべし」
というのが、伊東に対する大本営命令であった。伊東は敵が出ないならばこっちから湾内に入ろうとし、それについて湾口付近を調べてみたところ、湾口をふさいでいる防材は予想以上に堅牢であい、艦隊を入れるほどの大きな口を爆破作業によって開けることは技術上不可能であった。
防材は、清国の傭技師であるドイツ人アルベルト・ネルゼンの設計したもので、材料は木材である。直径一尺の円材もしくは一尺平方の角材を用い、それぞれ長さは十二尺あまりあり、それを適宜の間隔に並べ、これに三本巻きの鉄鋼スチール・ワイヤーをとおし、遊動を防ぐために各材の中央にマニラ・ロープをむすびつけ、しかも十本ごとにいかり を一つずつ沈めてある。
伊東は結局、水雷艇を湾内に潜入させることによって魚雷攻撃を加えることにした。
魚雷は英国人の発明にかかるが、それが発明されたのは、二十九年前にすぎず、それを乗せて敵艦に肉薄攻撃する水雷艇が発明されたのは、また二十年前にすぎない。
その水雷艇を集中的に使用するという作戦を思いついたのはこの時期の日本海軍が最初であり、この世界初の水雷戦を見るためにこの狭い海域に各国の軍艦が集まって来た。英国は四隻を派遣した。米国は三隻、ほかにフランス、ロシアは一隻ずつを渤海ぼっかい の洋上に游弋させた。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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