子規がその書簡でいう、 「威海衛というのは、明治二十八年の正月から二月にかけて行われた陸海両面の戦いであった。 すでに前年の九月に黄海海戦があり、十一月に旅順の占領がある。 その間かん
、日本軍は敵の多くの拠点を奪ったが、戦いの勝敗を決するのは、当然、清皇帝の直隷平野に軍を進め、さらに北京城に進んで城下の盟ちか
いを強し いることであった。 その作戦を計画するに当って陸軍は第六師団の残部と第二師団を動員し、それをもって第二軍を強化した。 それを、直隷平野に送らねばならない。送るに当って懸念けねん
されるのは海上の不安であった。 威海衛に敵艦隊がひそんでいる。 すでに彼らは黄海海戦で傷つき、その戦闘力の数十パーセントを失っていたが、なお日本艦隊と互角に決戦し得る能力がないとはいえなかった。例の世界に著名な巨艦定遠、鎮遠は健在であった。 ここで威海衛攻撃が大本営で決定された。その方法は、陸の第二軍をもって威海衛要塞をその後ろから攻撃する一方、伊東艦隊は港内の北洋艦隊に決戦を挑み、これを海外に引き出して全滅させる、というものであった。 その要塞攻撃のための第二軍をどこに上陸でしめるかについては、大本営ではすでに前年十二月六日、艦隊司令長官伊東裕亨に調査を命じた。 その調査団が設けられ、彼らが綿密に調べた結果、栄城湾という適地を発見した。このあたりは中国人の漁舟がむらがっている所で、来たと西から吹きつける冬季の風浪を避けることが出来る。 上陸地はこの栄城湾に決まった。この栄城湾から陸路、威海衛要塞のうしろを突く。担当は、大山巌を総指揮者とする第二軍であった。 第二軍の集結地は大連であった。大連から海路この栄城湾へ運ばれる。 のべ四十余隻の汽船が使われることになった。第一回の輸送が始まったのは、一月十九日である。第二回は二十日大連発、第三回は二十二日大連発で、予定通り進んだ。 第一回のみは護衛艦がつけられた。あとの二回の輸送船は、護衛なしの丸腰であった。しかも敵の北洋艦隊のいる威海衛の湾口を通り過ぎて行くのである。 幸い、敵の抵抗がなく、無事終わった。この丸腰の海上輸送についてロシア側の批評
(1896年、海軍大尉クラード) は、 「護衛なしで陸兵を輸送するなど、これほどばかなやりかたはない。日本の船団を清国艦隊が襲わなかったのは単に偶然である。伊東は偶然という機会を期待して作戦計画を立てている。機会というのは無知者の崇信するものだというのはカントの言葉だが、とにかく海軍将官にとって最高の学科である海軍戦略において伊東は無学であることを表明した」 と、こきおろしている。 |