たまたま戦場付近に、歩兵第三連隊の第三中隊が行軍していた。 中隊長は、中尉中万
徳二である。中万は、 ── 騎兵が、敵の大軍と交戦している。 とう報を聞くや、すぐさま中隊にかけあしを命じ、応援すべく戦場に到着した。騎兵の防御力の弱さを中万はよく知っていた。ところが戦闘に参加するや、この応援中隊はばたばたやられ、中万中尉も頭部に敵弾を受けて即死してしまった。 ──
退却すべきである。 という考えが、どの将校の脳裡にも明滅していた。敵に対して効果がない、それにひきかえ味方の損害は増大するばかりである。ここはすみやかに退却することが、戦術上の及第答案であることは間違いなかった。 が、好古は前を向いたまま、酒を飲みつづけている。その前後左右で、兵がたおれた。 ──
この損害はどうだ。 と、好古の副官の稲垣三郎中尉は思った。たれもが、味方の敗勢をみとめた。 が、好古のみは醒さ
めていた。 (応援に来た歩兵中隊をのぞき、騎兵の場合はけが人ははなはだ多いとはいえ、しかし死んだ者はまだ一人だ) と、勘定かんじょう
していた。いくさとはそういうものであると好古は考えていた。 とこが困った事に、敵に優勢な砲兵が来援したらしく、砲弾がおびただしく降ってきてあちこちで炸裂さくれつ
しはじめた。このままこの状態を続ければ砲弾のために全滅するかも知れない。このとき、好古の指揮下にはない応援中隊が、退却を始めた。 「なあ、熊谷くまがい
」 と、好古はかたわらの熊谷通訳官をかえりみた。すでに彼我ひが
の戦線が入り乱れて、好古のそばにはこの通訳官熊谷直亮なおすけ
のほかたれもいなかった。 「わしゃ旅順へ行けといわれているんじゃ。退却という命令はうけとらんけん、一歩も退ひきゃせんぞな。去る者は去れ、わし一人でも旅順へ行くぞな。それには通訳が要るけん、君だけはついて来い」 このころ、ひょっとすると好古は酔っ払ってしまっていたのかも知れない。激戦時間が長かったため、酔いが限度をこえていてしまったのである。 「伝令」 と、好古は呼んだ。伝令が、徒歩で駈けて来た。 「河野
(第一中隊) にそう伝えよ。貴官は第一中隊を率い、乗馬をもって敵の砲兵陣地を攻撃、これを撃滅すべし」 命令を受けた河野大尉は弾雨の中を駈けて来た。 (この状況下で突撃とはどういうことだ) ──
アノトキ秋山サンハ酔ッ払ッテイタノダ。 という説が、その後信じられた。たしかにそうであったかもしれない。 だ、命令は命令である。河野大尉は死を決意し、好古の前で刀とう
の礼をし、 「これでお別れします」 と言い、駈けて行った。 |