河野大尉は、この惨況のなかで好古の命令どおり敵を襲撃すべく隊に戻ったとき、敵の様子の方に大変化がおこった。 彼らは全線にわたって攻勢に転じたのである。彼らは四キロにわたって展開していたが、砲弾を秋山支隊の中央に落下させつつ歩兵部隊を二つに分けて両翼にひらき、わが方へ包囲に態勢をとりながらなんと四、五百メートルの近さまで肉薄して来たのである。こちらから襲撃するどころのさわぎではなかった。 「河野大尉に言え。命令中止」 と、とりあえず伝令を走らせ、退却部署を決めねばならなかった。退却となれば騎兵はもちまえの足でいっさんに逃げることが出来るが、歩兵部隊を連れている。これが足手まといになった。しかし歩兵は協同してくれている以上、騎兵が先に逃げるわけにはゆかず、 (歩兵をまず逃がさにゃ) と、そのように部署を決めた。戦いで最も困難なのは退却戦であった。敵は勢いに乗っている。こちらが逃げ足を見せればどっと来るに違いなく、それを食い止めつつ整然と引きあげねばならない。その食いとめ役が、殿軍
であった。つまり退却援護部隊というものはもっとも損害が多い。 「わしが、後衛しんがり
じゃ」 と好古は言った。常識とは逆であった。主将自身がそれをやるという。 結局、それをやった。 好古は最後尾で指揮をし、潰乱しようとする兵をまとめつつ退却し、苦戦を重ねているうち、歩兵第三連隊が急を聞いて来援したため、ようやく敵の追撃だけは食い止め、戦場を離脱することが出来た。 「まったくひどい戦闘だった」 と、あとで戦場を視察した第一師団の参謀たちは言った。 「秋山のは蛮勇じゃな。戦術的になぜさっさと退却せなんだか」 と、参謀たちはささやいた。好古が捜索の最前線から旅順攻撃の方法について意見書を出した時、その戦略眼の確かさとその趣旨の明快さにどの参謀も驚いたが、そのことと、実戦の現場での蛮勇とを思い合わせると、同一人物ではないようにさえ思えた。 第二軍の旅順攻撃は、大山巌が決定した予定どおり、二十一日の払暁ふつぎょう
、寒気をついて開始され、主力諸隊が前進した。この間かん
秋山支隊は主力の右側の援護に任じ、椅子山の西方に位置し、一方、鳩湾はとわん
まで浸入して来た海軍の艦艇と連絡しつつ、優勢な敵を釘づけにしつづけた。 「半年はかかる」 といわれた旅順要塞は、驚くべきことにまる一日で陥ちてしまった。 守備兵の大部分は金州方面に逃げた。この攻撃での日本軍の戦死は将校一名、下士と卒は二百二十九名にすぎない。勝利の最大の因は、日本軍の方にない。このころの中国人が、その国家のために死ぬという観念を、ほとんど持っていなかったためである。 |