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清 戦 争 (四十六) | さらに好古は、旅順攻撃の方法を説く。
「捜索騎兵隊長」 という肩書きで出しているが、旅順の分析とその弱点の考察、攻撃法の案出の的確さという点で、これほど見事な捜索報告は戦史上少ないであろう。 「旅順の諸砲台は、砲声の小ささから察するに意外にも小口径砲が多い。砲弾がどの程度の命中率を持っているかを観察してみたが、きわめて粗末である。攻撃部隊は案ずるよりも損害が少ない。それに旅順の地形は波状が多いため、攻撃部隊の動作を多少は隠してくれるであろう」 「いまひとつの方法がある」 と、好古は第二案を示している。 「それは、旅順練兵場の西方約四百メートルにある高地、そこに付設された二砲台を先ず占領することである。この方法を用いるためには軍の主力を、土城子
から石嘴せきし をへて水師営西方の高地より進入せしめねばならない。ただこの攻撃方法における最大の困難は、標高五百メートルあまりの高地を、よじ登ることによって攻撃占領せねばならぬ点である。さらにこの攻撃方法をとる場合、水師営西方高地にある諸道路をくわしく偵察しておく必要がある」 好古の意見書は、さらに詳細をきわまている。日本軍の習慣として工兵を軽視しがちな点に留意し、
「どの攻撃方法をとるにしても、各攻撃部隊には工兵を付属せしめねばならない」 という。 また、騎兵を使いこなす能力を持たぬ軍司令部のことを考え、 「核攻撃部隊の連絡がとだえるおそれがある。このため各部隊には騎兵を少しずつ分属せしめる必要がある」 と、書いている
(以下、略) 日露戦争においては、好古は旅順を担当しなかった。日露戦争において旅順攻略をするに当ってこの程度の捜索報告があればその死傷はおそらく半減したであろう
(もっともこの日清戦争における旅順攻撃のなかには旅団長として少将乃木 希典が加わっている。乃木はのち日露戦争のときの旅順の担当者になった。彼はすぐれた統率者であり得ても、戦略家としての資質がとぼしかったようである)
。 ともかく、第二軍司令官大山巌は、この好古の意見書によって攻撃計画を立てた。攻撃開始は、十一月二十一日ということに決められた。 好古は、右の意見書を出すと、翌十八日朝七時、宿営地の営城子を出発し、前進した。 ところが双台溝そうだいこう
から山間堡さんかんほ に達した午前十時ごろ、水師営方面かtら前進して来たらしいおびただしい敵と遭遇した。 「どのくらいいるのか」 と、好古が台地から見たところ、一個旅団以上であることは確かであった。味方は、わずかに三個中隊しかない。 当然、退却すべきであった。なぜならば捜索隊は敵情・地形を偵察してそれを後方に報告する事が目的であり、戦闘は主目的ではない。 が、この初陣で退却すれば士気にかかわるうえに、軍全体に対し騎兵の評価が一時に下がるであろう。 好古は、攻撃を決意した。
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