〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-W』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(二)
 

2014/12/06 (土) 

日 清 戦 争 (四十五)

旅順というのは、戦いというものの思想的善悪はともかく、二度にわたって日本人の血を大量に吸った。
旅順は遼東半島の先にあり、天然の良港をなし、遼東湾、渤海、黄海の三つの海をその細い半島をもって分けているという地理的位置から、ここが海軍基地に選ばれたのは当然であろう。
この地理的位置に目をつけて軍港にすることを清国政府に献策したのはドイツ人であった。
そういうことから清国がここに 「水師営すいしえい 」 を設け、軍港の設備を設けたのはわが国の明治十七年である。
軍港は海軍の基地だが、しかし艦隊保護のために軍港のまわりの山河を鉄で固めるほどの陸上要塞の設備が要る。清国政府はその設計をドイツ人に委嘱し、この日清戦争の段階では完成していた。
「東洋のセヴァストーポリ」
と言われたのは、多少ほめすぎかもしれない。なぜならばロシアのセヴァストーポリ要塞の規模の大きさ、精巧さ、重厚さは、要塞づくりにかけてはどの民族よりも素質があるといわれるロシア人がその大帝国の国力をあげて造ったもので、清国製のこの旅順要塞とは比べものにならない。
が、東洋一もしくは唯一の近代要塞であることは確かであった。フランスの提督クールベーは旅順にやって来て、
「この旅順をおとし入れるには五十余隻の堅艦と、十万の陸軍を投入してもなお半年はかかるであろう」
と言った。
その港口は黄金山こがねやま 砲台、饅頭山まんじゅうざん 砲台などでかため、港の背後には、東鶏冠山ひがしけいかんざん、二竜山、松樹山しょうじゅざん椅子山いすざん などの大堡塁だいほるい をるいるいとめぐらし、中央は白玉山堡塁えおもってかため、それらをまもる砲は大小百数門を数え、一万二千の守備兵がまもっている。
「ところが、たいしたことはなさそうだ」
と、最初に知ったのは、騎兵を率いている秋山好古であった。彼は騎兵の今ひとつの機能である 「捜索」 に任じていた。このため多数の騎兵斥候を出して敵情を克明に知ろうとした。
「守備兵が一万二千というその内容は、粗末である。元来の守備兵は八千五十人で、あとは金州や大連湾で敗けた連中が逃げ込んでいるにすぎず、士気は低い」
と見た。好古は。十一月十七日午後一時、営城子から第二軍司令官大山巌あて、意見書を送った。
「諸情報によれば、敵は旅順城を死守すること確実である。砲台は大体標高三百メートル以上の諸高地にある。どの道路から攻撃縦隊を進入させても、五、六千メートルの範囲内は敵の縦射と側射をまぬがれない。旅順攻撃のもっとも簡単な方法は、夜明けに乗じ軍の主力をもって旅順本道から水師営を経て旅順市街にすばやく飛び込むことである。この方法をとれば、たとえ飛び込みに失敗しても退却兵を水師営北方三千メートルの高地に収容する事が出来る。・・・・」
『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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