指揮刀の話のついでながら、陸軍騎兵少佐秋山好古の指揮下にある騎兵大隊
(二個中隊) の装備についてふれねばならない。 騎兵は、その長大なサーベルと小銃を兵器としている。もっとも将校は小銃を持たず拳銃を持っている。 騎兵の小銃は、斜めに肩へかける。ヨーロッパの場合、乗馬者の負担を軽くするためと馬上操作の必要上、銃身を特別に短くした騎兵銃というものがあったが、この時期の日本にはない。歩兵銃である村田銃を長々と背負っている。 村田銃というのは、日本陸軍の制式銃であった。 旧薩摩藩士で村田経芳
という人物がそれを発明した。村田は旧藩時代から小銃に関心を持ち、明治八年、歩兵少佐のときヨーロッパに渡って小銃の機能と製造を研究した。 明治十三年、遊底式ゆうていしき
の小銃を開発したのが最初の村田銃であり、単発であった。 明治十八年、これに改良を加え、同二十二年さらにその機構を一新し、連発式にあらためたが遊底式という点では変わらない。この村田連発銃というのは後にこれを原型として三八式小銃が開発されまでこの時代の世界で最も能率と精度のたかい軍用銃とされたが、しかし、生産がおっつかず明治二十七年の日清戦争ではこの式がさほどには行き渡らず、秋山大隊の小銃のほとんどは改良単発式の十八年開発のものであった。 ついで、馬である。 馬は、この日清戦争の段階では、アラブもサラブレッドも使われていない。雑種ですらない。日本馬であった。大隊長である好古も、西洋人が日本騎兵を見て笑ったように、 「馬のような馬・
」 に乗っていた。 ただ一人例外があった。沢田中尉という若い将校が一人洋雑種の馬に高々と乗っていた。。この馬はかつて東京トンキン
戦でフランス軍が使った馬を陸軍が種馬として買い、日本馬と交配させて生まれた者で、沢田はそれを手に入れ、新馬のあいだから自分で調教して来た。 白馬である。厳密には葦毛あしげ
で、白い地にまばらの斑紋はんもん
がある。 沢田はその馬で、広島へ来た。ところが広島滞在中、陸軍から達示があり、白馬を戦場に持って行くことが禁止された。敵の目標になりやすいからであった。 沢田は窮したあげく、染料を買ってきて緑色の染めた。緑馬というのは世界にも無いであろう。 宇品うじな
から出港する前、山地師団長による軍装備検査が行われた。沢田は、この大きな緑馬に乗って風の中で閲兵をうけた。 やがて山地が巡視してきてその前に立ち、おどろいたように随行の好古を振り返った、好古はすかざず、 「閣下、この馬は元来妙な馬であります」 と大声で言うと、山地はただ一つの目をそびやかせ、鉄色の顔をわずかに崩した。ほぼ察したらしい。 |